⑪クリスチャンのいちじく「無花果か有花果か 編」

【Tさん】;クリスチャン
【私】;hirachyuu


ご注意)
国会議員、クリスチャン、旧統一教会の方、超宗教の方、考え方は多種多様、右から左まで様々あります。【Sさん】も【Tさん】も【私】も、その一人として意見交換した内容です。


【Tさん】
hirachyuuさん、「いちじくの葉っぱを腰に巻いた」に重点を置くのではなく、「目が開け」に重点を置いてみて下さい。
「裸であることが分かり」、「腰に巻いた」のは「目が開け」で自我が目覚めた結果なのですから。
蛇もソコに重点を置いて誘惑してますね。
目が覚めて「神のようになれる」(=これこそが原罪)とね。
セックスの快感が待ってるぞ、とは誘っていません。
イブはイブで「賢くなる」にまんまと引き寄せられました。


人の場合、異性への目覚めは自我がなくてあり得ましょうか。
自我があってこその異性への目覚めですよね。
ある日突然セックスした事によって「目が開け」、「裸であることが分かり」、という順番で自我に目覚める人って普通は居ませんよね。
あなたや周りの人の成長の過程、異性への目覚めを思い出してみて下さい。


いちじくの葉っぱを用いたのは、ただ単に葉っぱが大きかったからでしょう。大きな葉っぱを選んだり綴り合わせたり、イッキに人は知恵を付けましたね。


【私】
有難うございます。聖書解釈の面白いところです。原理では無花果(イチジク)は、花の無い果と解釈して、花になって咲いていない状態の「蕾」と解釈します。花が咲いたら受粉します。人間に当てはめると結婚したら(花が咲いたら)性交して良いという解釈です。ローマ教皇のように一生涯未婚ではありません。      
即ち、「蕾」の時(結婚していない時)に性交したアダムとエバという解釈です。ですから、時ならぬ時に性交したという解釈になります。青年は絶対純潔が鉄則です。結婚したらどんどん愛し合って、どんどん子供を作りましょうです。


【Tさん】
「無花果】とは書きますが、じっさいは「有花実」ですよね。
花と実が一緒になってるのがイチジクです。
もちろん不純異性交遊や婚前交渉、自慰行為がダメと言われてる事に異論はありません。


私は植物の専門家ではないのでもう一度念のためにスマホでしらべました。するとやっぱりイチジクの実の内側にあるのが花だそうです。ただし花びらは無いそうです。
やっぱりイチジクは「無花果」ではなく、本当は「有花実」と書くのが正解のようです。


「有花果」は解釈ではなく植物学の事実です🤔
イェス様も何事も、見掛けで判断するなと言ってますし、
イチジクの英訳やラテン語訳も参考にしてみて下さい。
またアナタは宗教と科学の統一を標榜してるのですから、
この事実を大いに参考になさってみてはどうでしょうか?


エホバの証人は「血が滴るまま肉を食べてはイケない」を
摘まみ食い拡大解釈して、献血してはイケないになってます。
食べ物が人を汚すのではないとイェス様がチャンと言ってるにもかかわらず。私は献血ほどイェス様の血潮による肉体の復活、魂の復活を連想させる身近な事象はないと思い尊重してるのです。
変ですか。私も摘まみ食い拡大解釈に陥ってますか?
日々点検ですね。


            



【私】
有り難うございます。「無花果」と「有果花」で解釈が変わります。いちじくに花がないわけではありませんが、漢字では「無花果」と書きます。漢字は形象文字であるとともに、内的意味を読み解く面白さがあります。日本語には、音読み、訓読み、呉音などあるようにです。いちじくは「無花果」で解釈し、私は「有果花」で解釈しません。
  彼の「解釈」も面白い、あの人の「解釈」も、私の「解釈」も面白い、みんな自分が正しいと思って「解釈」して発信しているのですから、君の「解釈」は面白い解釈だね、Tさんの解釈も面白い、私の解釈も面白い、
にしておけば、(^^)/


 「無花果」の文言が、いつ植物学で「有花果」に変わったのか?どのような勢力の力が働いて変わったのか知りたいところです。例えば、「紫陽花」(アジサイ)は西洋紫陽花の場合、花のように見える紫色の部分を「装飾花」といいます。「花」ではありません、額紫陽花の場合は「額」といいます。紫陽花の紫色の部分は花でしょうか?額でしょうか?装飾花でしょうか?何故、植物学は「紫陽花」を「紫陽額」「紫陽装飾花」に変えないのでしょうか?花」でないことは確かです。細かいことを言うかもしれませんが植物学に質問したいところです。


それより、生物学的に人類始祖アダム・エバに「へそ」があったとするのか、無かったとするのか、はっきりしてほしいです。生物学者にもクリスチャンにも。



 解釈するとは、言語や、民族、時代によって様々に展開していくことが分かりましたので、ここで終了と言うことでよろしいでしょうか?イエス様がおっしゃった「何事も見かけで判断するな」いい言葉です。
では、現実社会で起こっている見掛けではない現実問題は何でしょうか?


 私は考えました。理屈っぽい男ですがご勘弁ください。
①戦争②性の乱れ(青少年問題)、私はこの2点を挙げます。
Tさんは何でしょうか?そして、この問題の根源はアダム家庭、そうです、アダムとエバが時ならぬ時にとって食べた青少年問題!、カインがアベルの血を流した戦争!、繋がっています。
聖書は素晴らしいです。創世記1章2章3章素晴らしいです。私は特に1章と3章が素晴らしいと考えています。Sさんが好きな2章も素晴らしいです。


以下のような文献がありました。
聖書は、各々その程度の差はあるが、それを解釈する者に、みな相異なる観点を立てさせるような結果をもたらすのである。教派が分裂していくその主要な原因は、実にここにある。ゆえに、聖書を解釈するに当たっては、その観点をどこにおくかということが、最も重要な問題であるといわなければならない。


 キリスト教歴史は、教義論争によって分派分裂していく歴史でした。「はぐらかさないでくれ」と言われそうですが、Tさんとのやり取りでキリスト教の解釈紛争の歴史を通過させて頂いています。


 私の聖書解釈の観点は、神様の血統復帰、神様の家庭復帰を実体で取り戻す法則が書いてあると見ています。「無花果」も、そこにあります。
アダム家庭で起こった、淪落と殺戮が、現代社会に展開されていると見るのです。
 全て、様々な文献を通して研究した結果、私個人が出した結論です。皆様と論議する中で、さらに飛躍できるかもしれません。

ありがとうございます。

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