人間の性稟は物質的には説明できない

hirachyuu

 この全ての過程は、神が子女たちの為に準備され具体的に立てられたものです。
 これらの過程の中で、そのどんなものも、取り止めもなく目標が不明確になったことがないのは、最終的な目標が予め立てられているからです。したがって統一神学は、進化を説明するにおいて無作為的な突然変異と自然淘汰に依存する理論とは両立することができないのです。また、統一神学は生命と精神を説明するにおいて、肉的な世界をその出発点と見ている如何なる理論とも両立することができません。
 生命とは、無生物体から自然に出てくるのではなく、神の影響を受けた性相が根本的に変化したものを言います。

 同様に、永続する人間の精神は、単純な物質の付随的な現象なのではなく、物質と生命のようにその起源は神です。

 したがって人間の性稟は物質的には説明できないのであり、神との関係によってのみ説明されるのです。統一神学によると、全ての関係は四位基台の観点から解釈できます。この四位基台の中では、一つの起源が二つの相互補完的な様相に分けられ、この二つの様相がその共通の起源を根幹として互いに調和的に連結されることによって一致を成すのです。

 例えば、人間の完成は、神を正として、心と体を分、そして完成した個人を合とする四位基台として理解できます。神との関係において、心は心情の一致を成します。体との関係において、心は神の目的と一貫した行動を生じさせます。体はある限定された範囲まで神の性稟を反映する要素から成り立っており、心の命令に反応します。このように完成した個人は、神の本性を現わすものであり、神の形状通りに作られたものと言うことができます。


 私たち人間の最初の先祖は、個人的な完成に至る為に責任分担を成し遂げなければなりませんでした。堕落についての聖書の話は、この責任を「善悪を知る木の実を取って食べてはならない」という義務として象徴的に表現しています(創世記2:17)。
 しかし最初の先祖は、その責任を無視し、その結果、神の心情を相続できなかっただけでなく、矛盾だらけの醜い堕落性を持つようになりました。人類の起源となる父母である最初の先祖は、このように堕落性を彼らの子孫に伝え、神は人間が再度ご自身の子女として成長し完成に至る責任を完遂できるように、復帰の過程を立てざるを得なくなりました。


 神の最も根本となる側面は心情です。したがって神の本然の願いは、人間が喜びを最高に実現することで神の本性を表わすことです。
 しかし人間は悠久の創造過程において喜びの極致になることができず、神の心情を崩壊させました。統一神学において神は、人々に死と永遠の破滅を宣告する憤怒の審判者ではなく、ご自身の子女の失敗によって悲しみを抱かれた愛の父母であられます。ですから堕落の最も重要な結果は神の悲しみです。
 神は、人々を堕落以前の状態に一方的かつ独断的に元返すことによっては、ご自身の悲しみを克服できません。それは人間の自由と責任を否定することになり、人間が神の性稟を二度と表わすことができなくなるからです。人間の責任が復帰の過程において保全されないとすれば、神の理想は決して実現されません。


         



 それで、旧約聖書の歴史を通じて、神は人々に「神の戒めを守り、神のみ旨を完成せよ」と促されたのです。多くの失敗が続いたにも関わらず、イスラエル民族は少なくとも象徴的、または条件的に最初の先祖の失敗を克服して遂に勝利しました。イエス様は、彼らの成功を基盤にメシヤを待ってきた国に来られました。
イエス様は、第2アダムとして罪なく出生されました。


 イエス様は自分の責任を完遂し、神の心情を相続されました。しかし、神の真なる息子としてのイエス様の目標は、自分自身の完成をはるかに越えるものであり、全ての人々が神の子女になることを切望されました。イエス様は神と一体となられたので、人々は自分たちの仲裁者としてイエス様と一つになることによって神と一つになり、自身の堕落性を清算することができました。
 この過程を通じて、神は、堕落した人々が、共同創造主として彼らの責任を完成できる能力を回復することができるようにしました。勿論、イエス様は、人々に対して彼らの意志に反して強制的にイエス様と一つになれと命ずることはできませんでした。

 それでイエス様は、彼らと神の愛を共にされる為に人々を集められて「神がお遣わしになった者を信ぜよ」と教えられました(ヨハネ福音書6:29)。

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