被造物の喜びが神にとって喜びとなる(^^)
恒久的平和世界の道②
心情とは、誰か、または何かを愛することによって喜びを得ようとする衝動です。それは感情とは異なります。イエス様と神の最も根本的側面を感情だと捉えるのは明らかに間違いです。これは最も根本的側面を知能や意志と誤って捉えているのと同じです。
心情は愛の中にそれ自体を明らかに現わします。ところがこの愛は、単に感傷的な感情やロマンチックな熱望ではなく、誰か、または何かの為に奉仕し利を与えて、気運を出させるような目的のある活動です。したがって、愛には感情だけでなく知性と意志が伴います。ですから、心情は知・情・意よりも深く、この3つ全ての出発点であり動機なのです。
イエス様は、空虚な中で抽象的に愛されるのではありません。イエス様は実体の人間たちを愛されました。喜びは愛する人、即ちその人が愛することができる人がいる時に初めて現れます。愛する人は愛される人と独立的に存在するとしても、喜びは彼らの間の関係によって左右されるのです。
心情の目的は愛を与えることです。したがって心情は、愛の為の適切な対象を探したり、創造しようとする衝動を含んでいます。ですから、被造世界は、神がご自身の愛を共にすることによって喜びを探そうとされる願いの結果です。しかし、愛の性質上、愛する側は愛される側が喜ぶ時に初めて、自分も充分に喜びを経験することができます。
したがって神において最高の願いは、ご自身の被造世界が喜ぶことです。このように神の心情を理解することによって、私たちは神が宇宙を創造された動機が喜び、即ち被造物の喜びが神にとって喜びとなるという結論を下すことができます。

もし神が私たちの「父」なら、神は明らかに私たちをご自身の「子女」となるように創造されているのです。統一神学によると、これは宇宙を創造された神の動機から出発します。私たちが誰か他の人を愛して感じる喜びの方が、動物や無生物体を愛して感じる喜びよりも潜在的により一層大きいのと同様に、神が感じられる喜びは、その愛の対象が神ご自身に最も近くて似ている時に最高となることができます。
したがって神の子女は、神が創造された他の全てのものと同様に、「性相」(心)と「形状」(体)を持っていますが、この2つを区別することはできても、それらを別々に切り離すことはできないのです。そしてそれらは神の「性相」(心情に根差した知・情・意)と神の「形状」(被造物を維持し、その被造物を調和的に作動させる神的なエネルギー)を反映します。同様に、神の子女は「陽性」(主体性と積極性)格と「陰性」(対象性と受動性)格を表わしています。これは神が私たちとの関係において、その関係を主導される時もあれば、応答される時もあるという事実を反映しているのです。