⑦ クリスチャンの方々と意見交換「貧乏人編」

【Jさん】【Yさん】【Sさん】【Zさん】;クリスチャン
【私】;hirachyuu


ご注意)
国会議員、クリスチャン、旧統一教会の方、超宗教の方、考え方は多種多様、右から左まで様々あります。【Jさん】も【Zさん】も【私】も、その一人として意見交換した内容です。



【Jさん】
高慢な貧乏人
 外に期待不満しても何も変わりません。先ずは自分の修正を。


【Yさん】
 金銭に困ってる人の多くが傲慢と断言することは心が貧しいと私は思いますよ。
 祈っても、頑張っても、人に尽くしても、物価高や税金、社会保険等多くの影響を受け、今のご時世困ってる人が多いです。
 それでも必死になって頑張ってる。もっと広い目で見ると色々なことがわかってきます。


【Jさん】
 外部からごめんなさいYさん。旧約外典シラの書に「高慢な貧乏人」という言葉があり、驚いた事があります。「ナルホド、貧乏人はどこかに高慢があるのだ」と納得。
 自分の高慢を振り返り、アブラハム、ヤコブ、ヨセフを模範に修正しました。向こう気が強い私は、義に過ぎて、権力に反抗。結果、上司の意地悪を受けて底辺貧乏。
 アブラハム~ヨセフ達のように悪を受けても、口を閉じて反抗せず、淡々黙々と建設的にアガペ善を励んだ。


 結果ヤコブ、ヨセフのように、不思議な奇跡祝福を頂いて、パワハラした上司以上に大いに祝福されました。
 東京砂漠、荒野砂漠のように厳しい社会ですが。高慢愚かな貧乏に滞留せず、自分自身を聖書に照らして修正して見る。
 外に期待、不満しても何も変わらない。先ずは自分の修正です。そうすればその従順謙虚に、神が奇跡祝福をして下さいます。


【Zさん】
自身では富んでいると思って、実は貧しい者、を思わされます。


Yさん】
旧約外典シラの書に「高慢な貧乏人」という言葉があり、驚いた事があります。「ナルホド、貧乏人はどこかに高慢があるのだ」と納得。


【Zさん】
 信仰から離れるのが高慢の端緒とはシラの書に書かれていますが、「高慢な貧乏人」と「高慢」と「貧乏人」の両者を直接結びつける記述が発見できません。
何処にあるのかご教示いただけると幸いです。(後学のため)


【私】
 マタイよる福音書にある山上の垂訓は、イエスキリストの代表的な教えとも言われています。「心の貧しいものは幸いである。天の国はその人たちのものである。」イエスキリストの言う貧しいものとは、「心の貧しいもの」を指しています。金銭に困っている人を「貧しい」とするイエス様の教えにあるのでしょうか?


【Sさん】
「心」の貧しさも言うが。本当に貧しい貧困も言う。そういう人は真剣に祈る。結果、満たされる。飢え渇くから幸いなのである。


【私】
 キリスト教の歴史のことが書いてありました。


初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。これがすなわち共産主義である。神の愛を叫びつつ出発したキリスト教が、その叫び声のみを残して初代教会の残骸と化してしまったとき、このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻す者たちが現れたとしても無理からぬことである。このようにして現れたのが唯物思想であった。かくしてキリスト教社会は唯物思想の温床となったのである。共産主義はこの温床から良い肥料を吸収しながら、すくすくと成長していった。彼らの実践を凌駕する力をもたず、彼らの理論を克服できる真理を提示し得なかったキリスト教は、共産主義が自己の懐から芽生え、育ち、その版図を世界的に広めていく有様を眼前に眺めながらも、手を束ねたまま、何らの対策も講ずることができなかったのである。


【Sさん】
共産主義思想こそ、ある意味では具体的に民衆に救いの手を差し伸べるものだと思ったからである。神に祈るだけでは何事も無かったからである。
 そこまでは正しい発想であったが、心に愛を持たない彼らは思想や権力闘争に明け暮れた。その結果、独裁政治にならざるを得なかった。しかし考えてみると、キリスト教的共産主義というのがあってもよかったのではないかと思う。宗教は祈りや儀式だけではダメなのだ。


【Zさん】
自分を見つめ直した時、あるいはどうしても解決しなければならない問題がある時に貧困に陥る場合があります。その困難を乗り越える強靭な精神力が必要なのかも知れません!? 神のご加護を!😊

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