㉒ 仏者とクリスチャンと真の祝福家庭

他宗教に寛容な日本人


相田公宏
■曹洞宗安泰寺住職

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 日本人は宗教に無関心は事実だ。日本人は無宗教は事実では無い。「日本人は正月は神社に初詣、結婚式は教会、葬式は坊主」と。
 宗教を問うと「特には」と曖昧だ。「仏教徒」と言う人もあり、自宅には仏壇と神棚がある。寺の檀家も居るが、宗派の教義を理解している人は稀だろうが。日本人は無宗教ではない。
 日本人は外国からの様々な物事を受け入れてカスタマイズしている。宗教も同様である。日本人は「非常に寛容な宗教心を持っている」と私はそう思うようになった。


 キリスト教は明確な教義がある。三位一体「父なる神、子なるイエス、聖霊」があり。それが信仰者を支えているが。キリスト教は他宗教を否定する。
 イスラム教やユダヤ教を基本的には認めていない。基は同じ神を信仰しているのに互いを否定している。
 カトリックとプロテスタントに分れたキリスト教内でも時には互いを否定するが。日本にはそういった宗教間の対立は殆んど無い。日本人は宗教のことで喧嘩をしない。仏教と神道が争うことはない。


 日本人はキリスト教を否定しない。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は、神様はひとり「1神」だから神様は喧嘩しないが、教徒は絶えず喧嘩をしている。
 西洋人が日本人から見習うべき点はここだろう。日本には八百万の神がいる。仏教には釈尊がおり阿弥陀様もいる。他にも仏は沢山いる。
 実をいうと、住職を務める安泰寺の本尊は、私は何仏か解らない。曹洞宗だから釈迦如来の筈だが、阿弥陀さんに見えるという人もいる。大日如来では?という説もある。


 仏像の専門家も住職の私も解らない。本尊が解らなくても日本では住職を務められる。悪く言えばいい加減曖昧だが柔軟性がある。
この柔軟が肝要だ。
 「柔軟さ」が世界宗教になくてはならないひとつの要素で。柔軟性を失い、固くなってしまえば、固い宗教、偏った宗教、喧嘩せざるを得ない宗教になる。
 それは人の役に立たない。人に害を及ぼす宗教だ。そのこだわりが相手宗教を否定する事に繋がる。


 宗教に拘り過ぎている人には本当の宗教心がない。宗教が必要だと強く主張する人には宗教心が足りない。宗教心が本当に自分の中に溢れていれば宗教を問題にする必要がないからだ。
 日本人にとっての宗教は空気を吸って吐くように自然なものではないか?。宗教心が溢れているからこそ無宗教に見える。だから他宗教に寛容になれ、宗教で他人を否定する必要もない。
 宗教に無関心である日本人は、最も宗教的な人々だと私は思う。ドイツにあって日本にないものは宗教の授業で。子供は14歳になるまで親の宗教に準じて、宗教の授業を受け、14歳になると自分がどの宗派に属するかを選択する。


 日本には宗教の授業は無い。しかし悲観する必要はない。日本の学校では給食が出る。給食の前には「いただきます」と言い、食べ終わったら「ごちそうさまでした」と言う。
 部活動で仲間の大切さや協調性を体で覚える。使っている教室やトイレは自分たちで掃除する。これは、禅の教えを実践している事で。当前のことのようにしている給食や掃除などは、とても大切な行いである。

 ドイツの子供は授業で聖書の教えを学ぶが、行動に反映されていない。イエスキリストの教えを頭に詰め込んでも、教えを実践する機会が学校内には無い。


 ネルケ無方氏は『日本人に「宗教」は要らない』で語る。『安泰寺に入門した私は禅を極める為に日本に来た。掃除や料理をしに来たわけではない。なのに何故、雑用をしなければいけないのか」
 この疑問に師匠はこう答えた。「掃除や料理をしないで何が仏道修行か。履物を綺麗に並べることも非常に大事。脚下照顧足元を見よ」と。
 今は師匠の言葉が解る。掃除や料理や履物など、雑用のそれらを差し引いて何が残るか。何も残らない。
いま生きているその瞬間をないがしろにして、ほかに何をするのか。座禅以外の日常生活も修行なのだ。


 日本人の日常会話はとても宗教心に溢れているという。「有り難う。済みません。頂きます。御馳走様。勿体ない。お互いさま。お蔭さま」など。
 日本人は無宗教では無い。日常の言葉や行動そのものが宗教的なのだ。他宗教に寛容である日本人に誇りを持ちたい。



     



クリスチャン【Sさん】
 「宗教に寛容」は、イエスの「宗教で裁き処罰するな」の教えに似ているのでは?。神は創世記当初から「人に愛アガペを行い、愛アガペをしなさい」と命じた。
 神は、最初から処罰をしたのではない。愛アガペを軽視する人は、神の国エデンを相続できないシステムにしたが。
 神は常に手を述べる「あがなう」愛をした。だから「神は愛」です。神が重視するのは「現実を建設的に繁栄的に有益的に行う」愛アガペです。他者の処罰ではありません。


 愛アガペは寛容です、慈悲です。これは凄い言葉です。愛は、他人の悪にいちいち感情反応しない。悪魔が行う逆境に対しても、神を信頼して淡々と建設的に繁栄的に有益的に物事を励む。それが寛容。
 そして慈悲をする。弱い人をいちいち苛めない。慈悲を持つの

です。


【真の祝福家庭】
<真の愛・真の家庭>


 皆様、絶対的神様の真の愛の本質は、受けようという愛ではなく、人の為に、全体の為に先に与え、為に生きようという愛です。与えても、与えたという事実すら記憶せず、絶えず与える愛です。喜んで与える愛です。母親が赤ちゃんを胸に抱いてお乳を飲ませる、喜びと愛の心情です。子女が父母に、心身をすべて捧げて孝行して喜びを感じる、その様な犠牲的な愛です。


 真の愛で結ばれると、永遠に一緒にいても、ただうれしく、宇宙はもちろん、神様までも引っ張れば付いてくる愛です。堕落の末裔である人間がつくった国境の壁、人種の壁、さらには宗教の壁までも、永遠に終わらせる力が、真の愛の価値です。


 神様の絶対的真の愛の主流属性は、絶対、唯一、不変、永遠のものなので、誰でもこの真の愛を率先して実践するとき、神様と同居して共に楽しむ事ができ、同参権、相続権までも享受する様になるのです。


 この様に、天国に入る絶対必要条件である「為に生きる人生」、すなわち真の愛の人生とは、すべての創造の平和理想的モデルとなる、神様を中心として平和に暮らす新しい理想家庭の人生です。人類は今、誰もが真の家庭を探し立てる事のできる道が大きく開かれました。


 皆様、「共に為に生きる人生」の典型は家庭です。父母と子女は真の愛と尊敬で、夫婦は相互信頼と真の愛を土台として、兄弟姉妹はお互いに信じて助け合いながら、一つになって暮らす家庭が、正にモデル的理想家庭なのです。真の愛の根に、真の愛の幹が生じて、真の愛の実を結ばせる、真の家庭を取り戻さなければならないという意味です。


 この様に、真の祖父母、真の父母、真の孫と孫娘を中心として、三代が一つの家庭で、永存される神様に侍って暮らす天一国家庭を探し立てる事が、氏族的メシヤの責任であり、平和大使と分捧王たちの使命であり、神様の願いである事をはっきりと知らなければなりません。
 もし全世界が、この様な真の家庭で満ちあふれるならば、そこには弁護士も、検事も、さらには判事も必要なく、天道と天法が治める、道理に従う世界となるでしょう。



【仏者】;曹洞宗安泰寺住職
【クリスチャン】;Sさん
【真の祝福家庭】;平和メッセージ16



ご注意)
国会議員、クリスチャン、旧統一教会の方、超宗教の方、考え方は多種多様、右から左まで様々あります。【仏者】【Sさん】【真の祝福家庭】も、SNS上の一人として意見交換した内容です。

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