現代社会の価値観の崩壊の原因は何でしょうか。

hirachyuu

人間の幸福と絶対価値

 1987 年 5 月 29 日、「科学の統一に関する国際会議」企画委員会会議での演説「絶対価値」という主題は、これまで科学の統一に関する国際会議において「科学の統一」という主題と共に、代表的主題の中の一つでした。

 しかし、多くの人はこの主題を討論することをためらっているように思います。このような討論が、絶対主義や神中心の独裁のような方向に流れかねないと思っているからです。
 絶対価値という難解な主題を脇に置いて、これまでのように普遍的な科学と価値に関してのみ討論したら、科学の統一に関する国際会議の参加者の皆様もどれほど気楽でしょうか。
 しかし、こういったことは全て、絶対価値とは何かに対する誤解から始まっていると思われます。それで今日は、特にこの絶対価値という概念について一緒に考えてみる時間を持ちたいと思います。


 ある社会が民主主義社会に進もうとすれば、皆に共有された何らかの価値基盤が必要です。このような共同の価値基盤を通して人々はより容易く互いを信頼し、共同体の問題の解決策を探し、その中で安定して生きていくことができます。


 民主主義は、互いに異なる政府の下でも各政党が武力対立なしに共存できるという共同の価値があってこそ、機能することができます。
 同様に宗教と文化の多元主義もまた、共同価値に基づいた相互の尊重と礼儀が守られる所においてこそ花開くことができます。


 しかし、現代の西欧社会は、益々この共通の価値体系から遠ざかっています。単一争点式の政治の登場と根本主義に対する訴えが、価値葛藤の現象として現れつつあります。
 価値観が不在の若者たちは、麻薬やアルコール及び犯罪のどん底に陥っており、人々はもはや互いを信頼できずに恐怖の中に生きています。誰もが認識している通り、このような現象が継続するとすれば、米国は長続きしないでしょう。


          


 現代社会のこのような価値観の崩壊の原因は何でしょうか。なぜ問題の解決策が絶対価値を探すことにあるのでしょうか。
 崩壊の原因の第一は、人間の意識が世界的レベルに拡散したことに見出すことができます。

 過去の価値体系は、特定の宗教や文化を通して私たちに伝授され学習されてきましたが、あらゆる宗教と文化が共存する今日の世界では、特定の文化や宗教のみを強調してはいけません。
 支配的宗教を通して共有される価値は、もはやこの世界には適合できません。これからは、各々の独特な宗教と文化的価値を尊重し発展させながら、彼らを一つの共同体の中で調和できるようにする価値観が必要です。
 そのような価値観は公正で全てを包容するものであるため、私たちはそれを絶対価値と呼ぶことができるのです。


 第二の原因は、客観的事実と主観的価値の間に人為的区別を設定した唯物論的視覚の澎湃(ほうはい=強く起こりひろがるさま)のためです。唯物論の視覚から見ると、客観的・物質的条件に基づいた事実は絶対的ですが、人間の主観的判断に基づいた価値は相対的です。
 また人間は相対的なものより絶対的なものをより信頼するため、唯物論では主観的な価値より物理的な事実がより強調されますが、これは誤った主張です。客観的状況という現実も、主観的な人間の価値判断の影響を受けることが多いからです。


 同じ花でも、ある人には美しく見えても、他の人には悲しみを呼び起こしたりします。


 ・廉価なエネルギー資源が必要な人たちにはエネルギーの生産技術が有益かも知れませんが、それが及ぼす環境的影響を心配する人はその反対です。


 統一原理では善くても悪くても結局、人間は万物に対する主管権を持っているために、万物に責任を負う存在であると見ています。
 人間こそ、自分たちが使う技術や物質について価値を創造する価値創造者です。したがって物質に対する評価の切り下げは、人間の創造性と芸術、そして生活の質までも共に低下させるのです。

 それ故、私たちは客観的事実自体の相対性と無常さ、そして客観的事実から導き出される主観的価値の重要性を知らなければなりません。文化相対主義、道具主義、または決定論的価値観も解答にはなり得ません。

 文化的価値が相対的だと主張すれば、それはまた客観的な物質や社会、または歴史的な原因などによって説明されなければならないため、このような価値観も結局は唯物論に陥るようになります。マルクス主義者やその他の歴史家たちの思想は正に、このような価値の二分法的思考論理によるものです。


 それに代わって私たちは、絶対的価値が存在するという事実を認め、その絶対価値を、多様な文化的表現の中で、多彩な方式で、統合させるように努力しなければなりません。



 第三に、価値観崩壊のもう一つの要因は、個人の自律性を絶対化させたためです。勿論、個々人の価値の重要性は、あらゆる代表的宗教において強調されるところですが、現代社会は個人の価値を如何なる他の価値より優位に置き、これを歪曲して理解しています。
 
私たちが自律性を追求する時に見逃しやすい内容は、価値とはその主体を支える対象との関係を必要とするということです。

 ですから、自律性を追求する個人が自分だけを眺めて生きるとすれば、逆説的に彼はその中で何の価値も感じられないだろうし、別の自律的個人との友情を願うとしても結局彼らの喜びは一時的であり無常であるという事実のみを悟ることでしょう。
 より大きな世の中に対する明確な目標がない人は、恐怖に苦しめられ喪失感に襲われることでしょう。

 
自律性と自己表現だけでは、最終的に個人の価値を発見することはできません。自己表現の欲求よりも更に深い欲求は、永遠不変かつ確固たる何かに対する欲望です。自分の生が頼ることができる帆柱を探そうとする過程において、私たちは生に対して目的と内容を賦与してくれる超越的存在があることを理解するようになります。個人を越えて存在する絶対価値を知るようになり、それに従って導かれた時、その人は自分の価値を見出すことでしょう。そして、そのような永遠性に基礎を置いて、遂に自身の価値を実現する表現方式を見出すようになるのかも知れません。



 ですから今日の混乱と文化的崩壊から抜け出して前進する道は、絶対価値に基づいた思想を発展させていくことであると確信します。
 絶対価値は全てを包容する公明正大な価値でなければなりません。永遠かつ不変の価値でなければなりません。統一と調和に導く価値でなければなりません。そして、個人の価値と自由、創造性という人間の最も高い熱望を充足させることができる価値でもなければなりません。


 先生は、既に何回も絶対価値の根本には、神の愛と心情という属性があると語って下さいました。神の心情が愛の源泉です。
 心情は、神が創造と共に意味と満足を探そうとしてこられた動機となりました。愛は対象である外部の人からの反応を必要とします。
 愛は自由で自発的な授受作用の関係の中で充足されます。
愛が蓄積されれば、対象の価値も更に加わっていき、対象がより大きい価値を持てば、主体に対してより大きな愛を返すのです。 
 それ故、神の心情は永遠の価値を創造しています。

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