絶対価値観は、一つの特定の教理や宗教、または理念に対する画一的同意を要求しません。
愛そうとする情的衝動のために創造を始められた神は、最も深い親密感を分かち合い、偉大な愛を共にできる相手を必要とされます。
聖書にも「男と女を神のかたちに創造した」とあります。
また、イエス様は私たちに「神を父母として侍れ」と教えて下さいました。父母の心は、大人になっても相変わらず父母に頼る不足な子女を見たいとは願いません。父母の願いは、自分の子女が育って世の中で定着し、彼らも父母になることです。
私たちは、神の絶対的み旨に対する服従と奴隷的依存性によってではなく、神のような人格を育てることによって私たちの価値を悟ります。
そうすれば、神に似た私たちの心情は、全ての人に対する神の無条件の愛と一致するようになります。そのため、ヨハネ福音書14 章20 節に「その日には、私は私の父におり、あなたがたは私におり、また、私があなたがたにおることが、分かるだろう」と明かしているのです。
絶対価値観は、神の名で絶対的権威に対する服従を強要する聖職者官僚制によっては実現できません。服従は、宗教的生においては必要な美徳であっても、それが絶対的であってはいけません。
また、絶対価値の体系が、神聖かつ全能であられる神に対する盲目的信仰に基づいてもいけません。
信仰とは宗教的生において必要な価値ですが、これは同時に人間が真理に対する無知の中で生きているがために必要なものでもあります。

絶対価値観は、少数の手の中に絶対権力が集中したような社会の為の基盤となることもできません。神の愛は特権のある少数の為のものではなく、普遍的に流れるものです。
また、全ての人の中で彼らの神聖さと価値を高めるものが愛です。絶対価値観は、強力な道徳規範を強要する政府によっても左右できるものではありません。
道徳性は必須的な価値であるため、道徳の崩壊は苦痛を招来し、数多くの生命の霊魂を破綻させます。しかし、今日のような無分別な自由の時代には、人々はもはや説教や訓戒、または社会的慣習の圧力によって道徳的に行動しません。心情から如何なる倫理的姿勢が正しいかという ことを確信させてあげなければなりません。
更に絶対価値観は、一つの特定の教理や宗教、または理念に対する画一的同意を要求しません。
真理とは特定の単語や象徴、または儀式によって捕捉されるものではなく、愛の中での真実と真なる状態を言います。愛は全ての多様な教理と観点、そして真心から絶対価値を悟ろうとする目標に進む全ての宗教を調和させ和解させることができます。
神の創造は、調和的な全体の 中に存在する被造物の多様性の中で明るく輝きます。このように社会の多様性も絶対価値に基盤を置いているのです。
私たちは、為に生きる男性と女性が共に始める絶対価値が具現された社会を描いてみることができます。為に生きる人々とは、キリスト教のアガペー的愛、仏教の慈悲、儒教の仁などの価値を自ら実践する人々です。各自の中で絶対価値を悟った個人は、自然に他の人にもその価値を伝えるようになるでしょう。
その結果、世界はもはや倫理的行為に対して強要する必要がなくなるでしょう。人々は価値を実現しようとする個人の自由意志で倫理的に行動するようになるからです。
絶対価値は普遍的価値であるため、その社会はもはや人種差別や階級葛藤、または戦争を知らない社会です。人々は周囲の兄弟が飢餓や貧困に苦しみ喘ぐのをただ黙視することができません。 私たちの心情は全てを調和させようとするので、人間の創造性は自然に最高の芸術的表現と種の多様性、自然の美を包容する方向に繋がるでしょう。
科学の統一も、絶対価値と分離することはできません。何故そうでしょうか。
第一に、学問の世界は物理的科学と人文科学間の分離により影響を受けるからです。
科学には依然として、何らかの単一の宇宙原理が全ての物質的実在を説明するであろうという仮定があります。人間が無知の状態を克服して宇宙の統一された原理を発見する時、全ての科学を統一することができるということが、物理学の分野で展望する統一理論の前提です。
しかし、社会科学や人文科学の分野では根源的統一に関する仮定がありません。寧ろ、学者たちは人間の信念や行為と関連した如何なる絶対的価値も否定する相対的立場を取っています。
人間という存在も、物理学で言う単一の宇宙原理の一つの結果的存在だと見ると、このような分裂は哲学的にも望ましくありません。物質には絶対的根源がある反面、それを研究して現象を観察し、知識を生産する人間にはそのような目的性がないという主張は矛盾しています。科学を研究し現象を観察して知識を作るのは、正に人間だからです。
第二に、事物の価値は主体との関係性の中で決定されますが、その価値を決定する主体は一般的に人間自身です。
先ほど言及したように、科学と技術は人間が付与する目的によって善にも悪にも価値が与えられます。絶対価値の基準と関係のない科学的実用主義は、科学を活用して支持する多様な主体である軍事業者・産業技術論者・農業技術論者・環境論者・消費者などによって益々促進されています。既に一部の科学者たちは彼らの奴隷になっています。ある人々は、純粋科学は人間の知識を拡張するために価値があるという言い訳によって自分を隠しています。ここで私たちは、果たしてこのような知識が何の用途に使われているのかという質問を投げかけざるを得ません。
第三に、絶対価値は他人の価値を尊重する心と連結されるため、その中で私たちは調和を発見することができます。
このような心を通してのみ、学問的修養における分派主義を克服することができます。学問的分派主義は、宗教における正統と異端の紛争ほど深刻です。新しいアイデアを提示したり、東洋医学のように非科学的方式で知識にアプローチする学問を重視する者たちはしばしば、伝統的学問に固執する科学者によって異端者として追われています。
時には真理に対する科学者の献身によって、見慣れない新しい主張に対する公正な評価を可能にすることもある一方で、既存のパラダイムに固執(こしつ)しようとする努力の故に彼らを盲目的にする場合もしばしばあります。
他人の主張が真実である時、他人の意見を傾聴するのが人間の本性であるため、このような絶対価値観に従えば、私たちは多様な観点をもっとよく受容することができるでしょう。
このような絶対価値的視覚を明示する百科事典に対する文先生の編纂計画を聞かれた方たちもおられるでしょう。この百科事典は、唯物論と事実/価値の二分法を克服する為に、異っていながらも一点で接合される方式で互いを現わす多様な宗教と文化を引用することによって、神・真理・人間の本性・心などといった理想的な概念を実在的価値として明示するでしょう。その反面、ブリタニカ百科事典のような現代百科事典の唯物論的視覚によっては、上記のような価値は、実在としてではなく、多様な人間の信念体系と哲学構造としてしか見ることができません。
また、この百科事典では、人間を責任感ある価値創造の主体的存在として見ることによって、科学者たちの技術や物質自体だけを明示するのではなく、偉大な科学者・エンジニア・芸術家、そして師匠たちの価値をより強調するでしょう。全てを謙虚に受け入れて包容する絶対価値の精神に従い、多様な観点で主題に関して討論し、時には対等な意見の開陳の為に他の視覚を持つ権威者たちを招待するでしょう。そうすることによって、百科事典それ自体が、互いに異なる専門分野と文化間の対話のフォーラムとなるでしょう。
整理して申し上げると、文先生は人間を全ての被造万物の中心存在と見なされます。自然の美的潜在力を完全に発現、または破壊することができる存在は専ら人間しかいないからです。このような価値を与えられている人間の心が、人間の中心にあります。そしてその心は人を天使、または獣のような存在に変化させる力を持っています。
人類の運命、更にはこの地球星の運命は、絶対価値の思想を発展させることにかかっています。
絶対価値だけが、人々を内面から完全な価値を成就させ、他の生命体との調和と平和の中で共存できるように導くことができます。
皆様は、これまで学者の世界に対する文先生の持続的な後援を受けてきました。今後もそのようになっているのです。これはその方の固い約束です。先生は何回も科学の統一と絶対価値のビジョンについて語って下さいました。しかし、その方も一個人であられます。このビジョンに対する学者の皆様の同参と、より容易い理解の為の研究と協助がなければ、私たちは如何なる恒久的な価値も作り出すことができないでしょう。
今私たちの文明が危機に瀕しているという事実を忘れないで下さい。科学者・哲学者、または政治家の中に、このように明確で包括的な解決策を提示した人が誰かいますか。
文鮮明先生のビジョンが正しければ、これは人類最大の希望となるでしょう。最善を尽くして、共に力を合わせて努力しましょう。