クリスチャンの意見交換、「科学的とは」

hirachyuu

【Sさん】
 事実を根本から問い直すことが哲学であり、事実を対象として検証するのが科学である。



【Oさん】
 科学的である、ということが真実だ、ということのように思っているひとたちがいる。
こういうことは本当にいけないと思います。
聖書を科学的・合理的に解釈するとグロテスクな解釈になります。



【Yさん】
 Oさん、科学は誰がやっても真実ではありませんか?。そうでないならその例を挙げて下さい。



【Oさん】
 Y様、科学は学問のひとつに過ぎません。科学というのは誰がやっても同じになる性質の学問ですが、科学的ということが(普遍的に)真実であるということではありません。



【Oさん】
  Y様、例でしたね。
 科学的に同じ温度であっても、その人やその時によって体感は全く違いますね。科学的には同じ温度ですが、科学の外に出ると同じ温度ではありません。科学が普遍的真実なら、空調などはひとつの理想的な温度だけになります。



【Yさん】
 Oさん、外観的事実は同じであっても心身の状態による受け止め方は違います。たとえば「嫌ね」という言葉も「好き」になります。
何をもって真実とするかです。客観的事実をもって真実とするか、主観的事実をもって真実とするのか。
一般的にいって主観的事実というのは裁判でも採用されません。



【Oさん】
  Y 様、ですから、客観的真実だけを取り扱う学問が科学だと申し上げているのです。
たとえば深層心理学は大変な学問ですが科学ではありません。
自分がこんなに苦しい、ということを科学的に解析されてもあまり意味はありません。
最初から私の申し上げていることを理解されていませんが、科学的真実=普遍的真実ではないと申し上げているのです。
聖書や宗教を科学的に解釈することを徹底したら、宗教としての存立余地はなくなります。
あなたは、なぜ生きているか?、と聞かれて、脳や心臓がそのように機能しているから、と答えますか?あなたはただそうなっているから生きているだけですか??



【Oさん】
 Y様、何をもって真実とするかです。おっしゃる通り。
だから、科学的であるということがイコール真実ではない、と申し上げています。



【Yさん】
 O さん、科学的真実≠普遍的真実だとすれば、真実という言葉自体が要らないということになりますね。場所時誰によって適時変わるということになれば言葉には意味がない。
できるだけ厳密化しようとして言葉は使われるものだと思いますが、それに反するところもまた味がありますね。



【Oさん】
  Y 様、現実というものは多様で多層的な様相を示しています。ご自分の知識や見識のなかだけで思索する世界は、ひとつの可能性でしかありません。異なる立場から見た真実もまた確かに存在しています。
科学的真実だけが普遍的真実だと主張するのなら独断になります。それは科学的精神に反することです。


【hさん】
創世記第1章は「量子力学」が書かれているのでしょうか?
創世記第1章の聖句から考察してみました。


3..神は「光あれ」と言われた。すると光があった。


4.神はその光を見て、良しとされた。


31.神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。


以上の聖句から、神様は光「波長」を見て、全被造世界の「粒子」物資を造られたことが、わかります。


       



 先端科学の量子力学、【二重スリット実験】において、
量子(素粒子)は人間の「観測」によって、波長(エネルギー状態)が粒子化することが分かっています。


 よって、創世記第1章は、宗教版の量子力学(観測者効果)と解釈しても良いと考えるのですが・・・
皆様、この考え、いかが思われますでしょうか?



【観測者効果】
量子は、誰にも見られてない時は波のように振る舞い、
観測者に見られていると粒子のように振る舞う。

×

非ログインユーザーとして返信する