「ゲンザイ、カコ・ミライ」の考察
「ゲンザイ」とは、何だと思われますか?
原理講論 堕落論 第一節 罪の根
今まで人間の中に深く根を下ろし、休むことなく人間を罪悪の道に追いこんできた罪の根がいったい何であるか、この問題を知る者は一人もいなかった。ただキリスト教信徒のみが、聖書を根拠として、人間始祖アダムとエバが善悪を知る木の果を取って食べ、それが罪の根となったということを漠然と信じてきたのである。
しかし、善悪を知る木の果が、文字どおり木の果実であると信ずる信徒たちと、聖書の多くの部分がそうであるように、これもまた、あるものに対する象徴、あるいは比喩に違いないと信ずる信徒たちとが、互いにその意見を異にし、それぞれに様々な解釈をしているだけで、今もってなお、これに対する完全な解明がなされていないというのが実情である。
我々は聖書によって明らかにされたことにより、罪の根は人間始祖が果実を取って食べたことにあったのではなく、蛇に表示された天使と不倫なる血縁関係を結んだところにあったということを知るようになった。したがって、彼らは神の善の血統を繁殖することができず、サタンの悪の血統を繁殖するようになったのである。
さらにまた、我々は次のような事実から、人間の罪の根が淫乱にあったということを、より一層明確に知ることができるのである。罪の根が血縁関係によってつくられたので、この原罪は、子々孫々に遺伝されてきた。そして、罪を取り除こうとする宗教は、みな姦淫を最大の罪として定め、これを防ぐために、禁欲生活を強調してきたのであるが、これも罪の根が淫乱にあるということを意味するものである。
また、イスラエル民族が神の選民となるため、贖罪の条件として割礼を行ったというのも、罪の根が淫乱によって悪の血を受けたところにあったために、堕落人間の体からその悪の血を抜きとることを条件として、聖別するためであった。数多くの英雄烈士、数多くの国家が滅亡した主要な原因が、この淫乱にあったということも、淫行という罪の根が、絶えず人間の心の中から、我知らず発動してきたためである。
我々は宗教によって人倫道徳を立て、また諸般の教育を徹底的に実施して、犯罪を生みだす経済社会制度を改善することにより、他のすべての罪悪は、この社会から一掃することができるかもしれない。しかし、文明の発達と、安逸な生活環境に従い、増大しつつある淫乱による犯罪だけは、だれによっても、またいかなるものによっても、防ぐことができないというのが現在の実情である。
したがって、人間社会から、この犯罪を根こそぎ取り除くことができない限り、決して理想世界を期待することはできないのである。ゆえに、再臨なさるメシヤは、この問題を根本的に解決し得るお方でなければならない。このように、これらの事実は、罪の根があくまでも淫行にあるということを如実に物語っているのである。
よって、「罪の根」=「原罪」です。
第一に原罪というものがあるが、これは人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪をいい、この原罪は、すべての罪の根となるのである。
すべての罪は、その根に該当する原罪から生ずる。それゆえに、原罪を清算しない限りは、他の罪を根本的に清算することはできない。
しかしながら、隠されているこの罪の根はいかなる人間も知ることができないもので、
ただ人間の根として、また、真の父母として降臨されるイエス(男性)のみがこれを知り、清算することができるのである。
キリスト教の「原罪」 (ウイキペディア)
原罪は、キリスト教内の西方教会において最も一般的な理解では、アダムとイヴから受け継がれた罪のこと。

概要
ユダヤ教では、「アダムの犯した罪が全人類に及ぶ」とする「いわゆる原罪」の概念を採る説もあるが、多数派はそのような見解を否定する。
現代の西方教会においては、罪が全人類に染み渡っていて罪を不可避的にする状態の中に、全人類が誕生して来る状態を指す表現として理解される傾向がある。しかし、西方教会内でも教派ごとに様々な見解がある。
また正教会では、原罪についての理解が西方教会とは異なるのに止まらず、そもそも原罪という語彙自体が避けられる場合もある。 正教会では原罪につき厳密な定義をためらい、定理とすること (教義化)を避けて今日に至っている。
創世記該当箇所
原罪概念の前提となっているアダムとイヴ(女)による罪は、 創世記3章に記されている。創世記の1章から3章までは多くの聖書註解書において1節ごとに詳細かつ重要視される註解がなされる箇所であり、しかも教派・思想の違いによる見解の差も小さく無い。 以下の簡潔な記述は、あくまで創世記で原罪にかかる該当箇所の概要に止まるものである。
神は楽園に人を置き、あらゆるものを食べて良いと命じたが、 (創世記2章15節 - 17節)、善悪を知る知識の木の実のみは「取って食べると死ぬであろう」として食べることを禁じた。しかし蛇にそそのかされた女が善悪の知識の木の実を食べ、女に勧められたアダムも食べた(創世記3章1節 - 7節)。ここで蛇は女に強制しておらず(強制できず)、女もアダムに強制してはいないことが、女とアダムそれぞれ自身の意志によって犯された責任ある罪であることを意味するものとして言及される。ここでの蛇は悪魔を意味すると言う解釈が伝統的になされるが(特に正教会・カトリック教会においては現在もそう捉えられる)、狡猾なうそつきの一動物であって悪魔を意味するものではないとする解釈や、「蛇は悪魔を意味する」のではなく「蛇の背後に悪魔が存在する」とする解釈[11]などが(特にプロテスタントで)なされることがある。
その後、神は自分の命令に背いたアダムと女に対して何を行ったのかを問いかけたが、アダムは神に創られた女が勧めたからとして神と女に責任転嫁をし、女は蛇に騙されたと責任転嫁をした(創世記3章9節 - 13節)。ここでの神がした問いかけは単なる質問ではない(神は全知全能なので知らないことはない)。人に問いかけることで、罪の自覚を促し、悔い改めの機会を与えるものであった。しかしアダムも女も、責任転嫁に終始してこれに応えなかった。
神は蛇を呪い、女の子孫がおまえのかしらを砕くと預言した(創世記 3:14 - 15)。これは神の母マリアから生まれたイエス・キリストが、十字架を以て悪魔を破壊することであるとされたり(ガラテヤの信徒への手紙 3:16, 26、ヨハネの手紙一 3:8 - 10、正教会における解釈例)、悪魔と戦うことであるとされたりする(カトリック教会における解釈例)。他方プロテスタントの中には、長い時を経る中でそのような救いの展開はあったものの、この箇所ではそこまで直接的な預言はされていないと解釈する者もいる。このように教派等によって様々な見解の差はあるものの、この箇所は直接的にせよ間接的にせよイエス・キリストが悪に対して致命的打撃を与える預言であり「原福音」とする基本的解釈については、概ね一致している。
女に対しては産みの苦しみと夫からの支配を、アダムに対しては地から苦しんで食物を取ることと土にかえることを預言した(創世記3章16節 - 19節)。神はアダムとイヴのために皮の着物を造ってアダムとイヴに着せた。なお、3章20節で女の「イヴ」という名が出て来る(創世記3章20節 - 21節)。ここで神が人類に下した判決において、その後の苦しみが指摘されているが、蛇に対してのような「呪い」はなされていない。皮の着物が与えられたことには、神の絶えない愛が表されているとも解釈される。
神は人(アダムとイヴ)を楽園から追放した(創世記3章22節)。この楽園追放(失楽園)についても、教派・思想によって解釈が異なっている。
教理史
初代教会には原罪の教理について様々な見解があった。
2世紀のエイレナイオスは、全ての人類の頭であるアダムにおいてすべての人類が文字通り罪を犯したとした。テルトゥリアヌスは初めて、アダムとイヴから人類全てが受け継ぐものとして原罪を理解した。他方アレクサンドリアのクレメンスは、原罪は全ての人間が罪を犯すという事実を表す象徴であると主張し、原罪は現行罪の不可避性を表現するものと理解した(場合によっては、クレメンスは原罪説を否定していると解されることもある)。
受け継がれるものとしての原罪について詳細に説明し、「アダムから遺伝された罪」とし、両親の性交を遺伝の機会として解釈したのは、アウグスティヌスである。カトリック教会(西方教会)は、オランジュ公会議(529年、Councils of Orange)において、原罪にかかるアウグスティヌスの教えを承認した。 アウグスティヌスはアダムとイブが恥じ、陰部を隠したのは性行為を行ったからであると解釈し、それを原罪とした。
宗教改革以降、アウグスティヌスの教え、およびオランジュ公会議のカノンなどの影響を受け、改革派教会は原罪にかかる教理として全的堕落説を展開した。これに対し、カトリック教会はトリエント公会議(1546年 - 1547年)において予定説とともに全的堕落説を否定することを確認し、アウグスティヌスの教えについて誤解している(とカトリック教会は考えた)プロテスタントの教えを否定し、原罪にかかる教理を確認した。
一方、正教会は上述のように公会議や教義論争を通じて原罪の概念の定式化に努めた西方教会と異なり、同概念につき、公会議による定理化(教義化)を避けてきており、その理解には様々な見解の余地がある多様性がある。ニッサの聖グリゴリイ(ニュッサのグレゴリオス)をはじめとしたギリシャ聖師父を引証しつつ、アダムとイヴの堕落の結果は肉体のみならず道徳的な面にも及ぶと理解されるが、アウグスティヌスのような「弱さと同時に罪責を(受け継いだ)」とするような「法律的な」理解は避けられる。