文系の聖書学に、理系の加味を!
文系の聖書学に、理系の加味を!

【Hさん】
神は最初に文系をお作りになった。ホンマに!。
文系無知は怖い。
【Sさん】
確かに!。文系無知は怖い。理系が必要です。アダム夫婦は文系だった。理系的に考えないから、蛇に騙された。
聖書学は理系には敵わない。文系に停留せず、理系思考も加えるべきです。
「教会=民会」で考えるのは「無知な文系」停留者です。理系的に考えるべきです。
マタイとルカは教会を民会で考えてない。アナニヤ夫婦は教会に入れなかった。本来の教会は、三一の神に「正しい恐れ、怖れ、畏れを持つklesiaで成る」。
「恐れ」phobosがカギ。恐れがないあなどり者は、ekklesiaから排除される。その意味で古代ギリシアの民会とは違う。
古代ギリシアのekklesiaは、後に愚衆平民でも入れる民会となったが。結果、悪の決断をして滅びてしまった。
マタイとルカがイメージするekklesiaは、古代ギリシア民会とは違う。神に正しい恐れ、畏れ、怖れを持つklesiaの人々で成る。それが教会ekklesiaです。
詳しい事は私の投稿を御覧下さい。グループ管理者は、私の投稿掲載を許可下さって、皆さんと教会考察を計って下さると幸いです。
無知は怖いです。浅い考えは怖いです。私が無知なら、修正意見を下さい。大いに歓迎します。
【Mさん】
全知の神に文系理科系は矛盾。それで宗教の解釈の中に(間違い)が存在する。
【hirachyuu】
神は全知ではないことを証明できる聖句です。 創世記3章11 神は言われた、
あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか?
食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか?
【Sさん】
「人が全知では無い」では?
【Mさん】
知らないのでなく干渉出来ないという聖句でしょう?
【hirachyuu】
なるほど、
ではこの聖句は、どう捉えたら良いでのでしょうか?
創世記第3章3 「ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
死ぬような木の実を食べようとするアダムエバを、神は放置しておくのでしょうか?人間の親なら、大声で「食べるな」と叫んで、その実を叩き落とします。
何故、神様は、干渉できないのでしょうか?
【Mさん】
原理を学んだ者はこの善悪の実を神の創造目的の中心であることを知っています。大事であるほど失敗した時の重大さは言う必要もありません。それは神が(死ぬ)と言われた言葉に出ています。そして今生きる我々が日々の生活の中で(これが神の造った世界か?)と誰もが思うような世界であることを確認しています。
【hirachyuu】
もう一度、お尋ねいたします。何故、全知の神様は、アダムとエバが死んでしまうことに干渉できないのでしょうか?
【Sさん】
Mさんの返信は相変わらず「?」が残りますね。Mさんの言葉は、文系的に理系的に「自分を駆使して」理解を努めるのは当然!。
神の言葉なら尚更の事です。

文先生のメッセージ 【原理講論 総序】
・人間の堕落を知的な面から見れば、それはとりもなおさず、我々人間が無知に陥ったということを意味するのである。しかるに、人間は、心と体との内外両面からなっているので、知的な面においても、内外両面の知をもっているわけである。したがって、無知にも、内的な無知と外的な無知との二種類がある。
・人間は有史以来今日に至るまで、休むことなく、無知から知へと、無知を克服しようとして真理を探し求めてきた。その際、内的無知を克服して内的知に至る道を見いだすべく内的真理を探求してきたのがすなわち宗教であり、外的無知を克服して外的知への道を見いだすべく外的真理を探求してきたのが科学なのである。
このような角度から理解すれば、宗教と科学とは、人生の両面の無知を克服して両面の知に至る道を見いだすべく両面の真理をそれぞれ探求する手段であったということを知ることができるのである。それゆえに、人間がこのような無知から完全に解放されて、本心の欲望が指向する善の方向へのみ進み、永遠の幸福を獲得するためには、宗教と科学とが統一された一つの課題として解決され、内外両面の真理が相通ずるようにならなければならないのである。
・宗教が、このような運命の道をたどるようになったのには、更にもう一つの重要な原因があるのである。それは、科学の発達に伴い、人間の知性が最高度に啓発された結果、現代人はすべての事物に対して科学的な認識を必要とするようになったにもかかわらず、旧態依然たる宗教の教理には、科学的な解明が全面的に欠如しているという事実である。すなわち、既に述べたように、内的な真理と外的な真理とが、いまだに一致点に到達できていないというところに、その原因があるのである。宗教の究極的な目的は、まず心をもって信じ、それを実践することによって初めて達成されるのである。ところで、信ずるということは、知ることなしにはあり得ないことである。
・我々が聖書を研究するのも、結局は真理を知ることによって信仰を立てるためであり、イエスが様々の奇跡を行われたというのも、彼がメシヤであることを知らせて、信じさせるためであった。
・ここにおいて、知るということは、すなわち、認識するということを意味するのであるが、人間は、あくまでも論理的であると同時に、実証的なもの、すなわち科学的なものでなければ、真に認識するということはできないので、結局、宗教も科学的なものでない限り、よく知ってそれから信ずるということが不可能となり、宗教の目的を達成することはできないという結論に到達するのである。このように、内的真理にも論証的な解明が必要となり、宗教は長い歴史の期間を通じて、それ自体が科学的に解明できる時代を追求してきたのである。
