フェミニスト神学との対論を通じて
神学博士(小原克博氏)の論文(1998年7月15日)と、文先生の「宇宙の根本を探して」(1996年8月1日)を訓読し、理解が深まりました。
父なる神を見失ったフェミニスト神学を凌駕する、文先生の「宇宙の根本」の真理である事が良く分かりました。
原理講論の神様の定義に関して、被造世界に対して「性相的男性格主体」であり、「愛の統一体」という言葉を文先生だけが、書き加えることができる素晴らしさを実感します。
「神のジェンダーに関するー考察ーフェミニスト神学との対話を通じて」
- 論文要旨
本論文は、フェミニズム思想およびフェミニスト神学と対話しつつ、特にジェンダーの視点から伝統的な神理解の再解釈を試みる考察である。
第1章では、最近の英訳聖書において、父なる神という伝統的理解が見直されつつある状況を考慮しながら、聖書が男性中心的であるという批判を解釈学的にどのように受けとめることができるかを論じる。
第2章では、フェミニスト神学によって批判されている男性中心的神理解が、「神の像」という概念を媒介にして人間論にまで拡張されていることを考察する。
第3章では、聖書的伝統の中には、父なる神、唯一神論という定型的理解に収まらない多様な神理解があることを論述する。
第4章では、家父長制的拘束からの解放を模索するフェミニスト神学の試みを類型的および解釈学的に検討する。
第5章では、フェミニスト神学の成果が日本の文化の中で、どのように受容されるべきかを示唆する。
第5章
Ⅴ 日本的な問題
これまで主として欧米における神のジェンダーをめぐる議論を考察してきたが、その議論は現代の日本社会において、どの程度、妥当性を有するであろうか。例えば、包含的言語による神の呼称「親なる神」「父母なる神」「母なる神」を積極的に導入すれば、女性は多少なりとも性差別的構造から解放され得るのであろうか。おそらく、答えは否定的であろう。
父親不在の家庭状況の中では、「父母」という対概念は、神を生き生きと描写するメタファーとなるどころか、実体を伴わない幻想になりかねない。
これまで主として欧米における神のジェンダーをめぐる議論を考察してきたが、その議論は現代の日本社会において、どの程度、妥当性を有するであろうか。例えば、包含的言語による神の呼称「親なる神」「父母なる神」「母なる神」を積極的に導入すれば、女性は多少なりとも性差別的構造から解放され得るのであろうか。おそらく、答えは否定的であろう。
父親不在の家庭状況の中では、「父母」という対概念は、神を生き生きと描写するメタファーとなるどころか、実体を伴わない幻想になりかねない。
また、何よりも日本社会において「母」が果たしてきた特異な歴史とその今日的影響を看過することはできない。欧米と比べると父権制が必ずしも明確に表面化しない日本社会においては、しばしば母性原理が父権制に対する補完的役割を負ってきた。そして、戦時中の天皇制と母性を中心とするジェンダー・イデオロギーの作為的融合は、そのような構造をはっきりと現象化させたのである。
国家という偉大な家族モデルの中で「母」であることは、女性に対し、特権的役割を享受しているかのような装いを与えながら、実際には、支配者の欲望を満たすための性差別構造を容認するよう仕向けてきたのではなかろうか。この構造は、戦争責任の問題がまだ十分に議論尽くされていない今日において、なお過小評価できない影響力を持っていると言わざるを得ない。
それゆえ、「母なる神」「父母なる神」という神の呼称によって、もっとも利益をこうむるのは、やはり男性であろう。つまり、日本においても、神と人間の関係を親子という家族関係のメタファーに限定されずに、多様に語ることが必要とされているのである。戦時中、日本のいくつかの教会では四位一体が語られた。伝統的な三位一体論に天皇という新たな神格が融合し、日本的な神の家族モデルを形成したのである。そういった傾向性を持った教会が国体護持のために奔走したことは言うまでもない。
それゆえ、「母なる神」「父母なる神」という神の呼称によって、もっとも利益をこうむるのは、やはり男性であろう。つまり、日本においても、神と人間の関係を親子という家族関係のメタファーに限定されずに、多様に語ることが必要とされているのである。戦時中、日本のいくつかの教会では四位一体が語られた。伝統的な三位一体論に天皇という新たな神格が融合し、日本的な神の家族モデルを形成したのである。そういった傾向性を持った教会が国体護持のために奔走したことは言うまでもない。
神のジェンダーをはじめ神理解・神表現が、決して形而上学的問題ではなく、現実の様々な差別構造に応答するための実践的な課題であることは明白である。
(同志社大学神学部専任講師)
