「赤天聖教」「真の父母論」は歴史の蕩減?

hirachyuu

 一昨日、京都大学農学博士・郷土史・歴史研究家山下重良著書の「古代日本原記」について考察しました。


 「歴史は勝者がつくり、勝者は事実によって裁かれる」
 歴史を調べると、上記は常に繰り返されてきた事実です。

 歴史の専門家は、多数の文献・現地調査・年代測定・画像解析などの調査結果を基に、史実は何だったのかを読み解こうとします。同じ事象でも
、様々に異なる説が発表されたり、権威ある組織や学者の説が定説になる場合も多々あります。
 「群平論争」など、根拠ある証拠物の発見により正論が覆る事もあります。歴史の敗者にも言い分や正義があり、その程度によって解釈が大きく変わってきます。
 ガザ地区、ウクライナ、朝鮮半島にも当てはまるのでしょう。家庭連合にも当てはまるのかもしれません。



 統一原理を学び、神様の創造目的を知りました。
 神の創造目的を成就する行為とか、その行為の結果が「善」であり、その反対が「悪」とあります


 個性完成・家庭完成・万物主管の三代祝福を完成し、
「神の喜びのための善の対象」になることが、創造目的


 この創造目的を基準に、「歴史の善悪」を見極めることも一つの方法かもしれません。



 家庭連合に起こる現象を歴史の責任に転嫁し紐解くことで、
何かが見えると思うのですが・・・、

「東廻りのキリスト教の歴史を蕩減」するため、様々な心情を通過している祝福家庭と思うのですが・・・、



郡評論争(ぐんぴょうろんそう) :「群平」行政区画
「評」が「郡」となったのは、645年大化ではなく、藤原宮跡出土の木簡の用字から、701年大宝律令の時と明らかになった。https://gengogengo.hatenadiary.org/entry/20091218/1261122465






             



 「古代日本原記」【序章】を、以下、添付します。


 ~古事記・日本書紀の偽作を糺した真正古代史を求めて~


日本書紀は八割方偽作と云う


 「歴史は繰り返すと」云う。一個人も、社会も、世界についても、過去に起こったと同様なことが何度も姿形すがたかたちを換えて繰り返し起こるものであると、古代ギリシャの歴史家ツキジデスが残した名言である。
また、紀元前五百年も前に孔子は、「温故知新」、故きを温ね(たずね)新しい道を悟れと説いている。


 人類はどのようにして誕生し、日本人の先祖はどこからやってきたのであろうか。往古の人々は何を考え、どんな経緯でこの国が出来上がったのだろうか。治世や外交、庶民生活など、当時の人々の生活、考え方や思想、その変遷を知ることが明日を考える上で重要な指針となる。同じ過ちを繰り返すことは何としても避けたいものである。


 ところが、我が国唯一の古代正史とされてきた日本書紀(以下、書紀、または紀と略記する)は、日本の古代を記した他国の史書や古神社の縁起、古代人の墓誌等から検証すると史実の歴史書ではないことが分かった。書紀や古事記(以下、記紀と略記する)は、大和朝廷を乗っ取った政権が、政治的意図を以て書いたとみられる。


 書紀は本来、史実を後世に伝える為の歴史書でなく、外からやって来て政権を乗っ取った人たちが自身に都合良く書いた啓蒙書だとも云う。直接の編纂当事者が歴史記録として残したくとも、あからさまに書けない史実は隠蔽され、辻褄合せのために隠ぺいつじつまあわ前後の歴史まで捏造されていることも判明した。
 その内容は、古事記で五割、書紀では八割方、偽作と云う。
明治天皇の孫を自称する中丸薫氏は云う、「古代日本の正史は記紀に基づくが、記紀は厳密な意味での歴史書ではない。しかし、日本ではこれらに書かれた内容が史学と混同され、そのまま歴史とされてきたところに問題がある」と。


 ところで『書紀』は『続日本紀』の記録によれば、養老四(720 )年五月辛酉、天武天皇の皇子舎人親王が総裁として、「日本紀三十巻、系図一巻を撰上した」とある。
 また、『古事記』はその序文によれば、和銅五( 712)年正月廿八日に太安萬侶が撰上したとある。太安萬侶の父、天武(大海人)天皇の食封の地を管理していた多臣品治 で、両者は天武天皇に極めて近い人物と云える。


 しかし、記紀ともに書かれた当初の原本は今は無く、我々が目にすることの出来るのはその後に幾度も書き写された写本しかない。原本は再三改ざんされたため、書紀の本文と系図が整合しなくなり、系図は破棄されてしまったとみられ、その写本さえも実在しない。
 また、古事記は出来上がった日付からみて、公表されるまで大凡年も隠蔽されていたこも分かっている。これらは書かれた後、奈良時代から平安時代にかけて再三改ざんされた痕跡も散見されている。先述したように、古事記の序文には和銅五(712)年に撰上されたとあるが、その後に完成した書紀には何の記述もなく、一世紀も後の「弘仁私記」の序文で初めて明らかになったもので、「弘仁私記」自体も偽書とみられている。中見沢明氏や上山春平氏は、中臣・藤原氏の権威を高める為に藤原不比等が御用学者に書かせたものとみている。
 藤原不比等は、朝鮮三国時代末期に百済から渡来した翹岐(ぎょうぎ)(書紀名・中大兄皇子)等とともに大和政権を乗っ取った智積(ちしゃく)(書紀名鎌子=鎌足)の二男である。詳細は第十章を参照されたい。
 だからといって、記紀は歴史資料として価値がない訳でもない。他の史料との整合性を検証しながら解読のルールさえ知れば史実を推し測ることができると思う。


 ところが、日本の史学界では古代中国や朝鮮半島諸国の史書はおろか、国内の記録さえきちんと解読できないまま推理ゲームを続けてきた。問題は、史実・真相を語らねばならない筈の学者等が、間違った憶測を書き明らかに間違っていることが後に判明してもそれを訂正しない態度が腹立たしい。だから、歴代の為政者が隠蔽した世紀以前の史実・真相をいかに解明するかが求められているのである。


 ところで、最近、漢文で書かれた書紀の筆法や用いられている暦法等の研究もすすんでいる。それらによると、書紀の古い時代の神代編は新しい儀鳳暦で、新しい時代は古い元嘉暦を使って記述しており、逆立ちした構造になっていると云う。とすれば、神代編は後から追加編纂、または改変されたものであることが分かる。


 また筆法からみて、第十四巻の大泊瀬幼武天皇(雄略)から第二十一巻の泊瀬部天皇(崇峻)、第二十四巻天豐財重日足姫天皇(皇極)から第二十七巻の天命開別天皇(天智)紀は、倭語(日本語)に習熟しない渡来人(唐人)が書いたとみられ、古い時代の第一巻・神代上から第十三巻・穴穂天皇(安康)三年紀以降、第二十二巻・豊御食炊屋姫天皇(推古)、第二十三巻・息長足日廣額天皇(舒明)、第二十八巻・天渟中原瀛真人(天武)天皇(上)、及び第二十九巻の天渟中原瀛真人(天武)天皇(下)までは、漢字の使い方に誤用や奇用のある独特の倭習、つまり和化漢文が認められ、それは日本人の手で書かれたものか、或いは後に改変されたのであろうとみられている。


 ところが、文献史学界は記紀の記述の恣意的な解釈に現を抜かし、学際的な連携を怠っているところに最大の問題がある。
 これではいつまで経っても史実は解明できる筈はない。国民は、そんな記紀や記紀の訓注本を底本にした教科書で国史を教えられてきたのである。昭和初期の史学者で早稲田大学の教授だった津田左右吉氏は、記紀を実証的に研究し「古事記及び日本書紀の新研究」など、多くの論文を発表し記紀の神代巻は史実に非ずと批判した。
 その結果、氏の著作は直ちに発刊禁止となり、皇国史観の横行していた昭和年、不敬罪に問われ失脚した。しかし、戦後は氏の業績を称える史学者も増えた。しかし、惜しいことに彼は、記紀の偽作を指摘したものの、史実の追究には至らなかった。結局、我が国古代の歴史は、曖昧な記紀の記述や創作された内容によって、その後の歴史研究は振り回され、史実は見えなくなってしまっている。


古神社は歴史の生き証人


 日本には弥生の古代から祀られた多くの神社が今尚実在し、そこには創祀の縁起や社が生きている。しかし文献史学者はそれさえ無視し、書紀の記述の恣意的な解釈に現を抜かしている人が多い。古神社の祭神や縁起は、仏教で云えば仏壇の位牌や過去帳にも等しく、祭神の諡号(神名)は貴人の生前における功績などを称えて贈られたものである。


 また、祭神に血縁や縁故のない人物が神社を創祀することはない。社伝の内容に多少の誇張はあっても、記紀のような全くの嘘偽りは無い筈である。今は血縁のない神を祀っているとすれば、血族でない後世の人物が祭神を差し替えたり、神名を改ざんした証拠でもある。だから神社の創祀者や地名・神社名は歴史を解明する上で重要な手がかりとなる。
 原田常治氏は、全国各地を長年かけて歩き、神社の縁起や社伝を詳しく調べて『古代日本正史』を著し、記紀の偽作を厳しく指摘した。それ以来、神社伝承学とも云われるような風潮が高まってきた。


 史学者は神社伝承に耳を貸そうとしないが、本書では史実追究の傍証として、古神社の縁起や伝承に注意を払い、記紀に改ざんされたり隠されたりした歴史の片鱗を求めて真相に迫っていこうと思う。-
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古史古伝にも史実が見え隠れしている


 古代の歴史を伝える記録は記紀だけではない。「古史古伝」と呼ばれる文書が国内に沢山ある。先代旧事本紀(以下、旧事紀と略記)は、その序文の内容に時代錯誤的な記述があることから偽書扱いされた時代もあった。
 しかし、それには記紀にはない記録も多くみられ、歴史記録として価値あるものとして国史大系に取り上げられている。
 九鬼文書・竹内文書・宮下文書・上記・秀真伝・三笠記・東日流外三郡誌・物部文書・安倍文書等にも史実の片鱗が隠されているかも知れない。
 これらの文書は皇室の先祖にもふれていることから、戦前はすぐに発刊禁止とり、公開者が逮捕されるなど弾圧された。いずれも記紀とは異なった神統譜が書かれているからだと云う。記紀そのものが史実を歪曲しているとすれば、記紀とは違っているからと云って一概に偽書とは云えまい。しかし、これら文書も後世に誰かによって改変されている可能性もあるやにみえる。例えば、宮下文書は、藤原不比等によって改ざんされているとみられ、九鬼文書も神代文字で書かれていたものを藤原不比等が漢字仮名まじり文に書き改めたと伝えている。古史古伝ばかりではない。記紀も藤原不比等やその後裔たちによって、幾度も改変されていることは、第八章で論証した。


 さらに、古史古伝の類として古代の豪族の系譜を伝える「丹波国造海部直等之氏系図」(略して勘注系図)や氏族の系譜も参考にすることができる。勘注系図は古代人物の実在を伝える史料として国宝に指定されている。


隣国の古代史や墓誌が語る史実


 本著は従来、偽書扱いされてきた古史古伝や伝承にも目を通し、古代から我が国と交流の深かった中国大陸や-韓半島諸国の史書も参照しながら、古神社の縁起や伝承等、国内各地に実在する古墳等の墓誌等から記紀の記述内容を検証し、その当時に活躍した人々の生存実年代を特定しながら史実を解き明かそうとするものである。ところで、日本の各地には数多くの古墳が実在する。


 しかし、今なお稜主が不明なままのものが殆どである。何故か。古墳や宮跡と伝承される遺跡から発掘される遺物の年代特定は、年輪年代法や放射性炭素( )の減衰解析で大凡の年代が推定されているものの、墓誌等の文字情報の解読が出来ていないからである。また、宮内庁管理の古墳は立ち入りが禁止されており、発掘調査が出来ない恨みがある。
 偉い考古学者のなかには、「日本の古墳は被葬者の名前を書かないのが慣習だ」といった説を唱えた学者先生がいて、墓誌の解読研究がすすんでいないのも一因となっている。その結果、権威ある学者への付和雷同があって、「科学的な証明」、「事実に基づく検証」がなされていない。
 考古学の成果と文献史学等、あらゆる情報を総合して検証・考察することで初めて古代学が成立するものである。まさに学際協調に欠けた考古学や文献史学界の縄張り根性が古代史の解明を阻んでいると云っても過言ではない。


 また歴史資料館や博物館に陳列されながら遺物に書かれている文字情報さえ解読できず、ただの展示に終わっている物も少なくない現状である。近年、井上赳夫氏や池田仁三氏等、長けたIT専門家によって、多くの古墳等の墓誌がコンピュータ画像解析によって独自に解読されている。しかし、考古学者等はわざとそれを無視している。碑石に書かれた弥生時代の墓誌や宮跡碑の文字は、すべて正確な漢字で人名や没年干支、没年齢が記されている。


 ところが、漢字が日本に伝来したのは世紀の品陀和気命(第代応神天皇)の時代に、「和邇吉師が百済から論語十巻・千文字一巻を伝えた」とする古事記の記述があることから、これが漢字の初めての伝来と勘違いしている学者も多い。
 そうしたことから、漢字で書かれた墓誌は後代の贋作ではないかとの見解で、解読された墓誌を疑っているのである。
 漢字の歴史は古く、中国大陸では遥か秦の時代( ~BC256年)に遡り、年、始皇帝は徐郷県(山東省龍口市)で BC219徐芾(徐福)と出会い、徐福は「東渡して仙薬を求めたいと文書を以て申し出た」とあるように、明らかに文書が交わされていたことを証明している。ただ、当時は漢字の原型となった秦字が用いられていたという。
 また、国内の遺跡から発掘された弥生時代の銅鏡には、たいてい漢字が記されている。弥生時代の人々はこれを理解できたとすれば、漢字の歴史は遙かに遡ると云う。


 例えば、久留米市田主丸町に在る弥生時代の平原古墳から発掘された方格規矩四神鏡には、「尚方作竟(鏡)真大巧上有仙人不知老渇次王(玉)泉飢棗保」とあり、これは「官の工房尚方で作った鏡は誠に大いに巧みである。図文の上には仙人が居て老いることを知らない。渇えると玉泉を飲み、飢えると棗を食べる生活をしている」というのだそうである。最後の「保」は、他の鏡の銘文にみられる「為国保」の句を省略して縮めるときに残った文字であろうとみられている。
 また、「三国志・魏書」の倭人条(以下、魏志倭人伝、あるいは魏志と略記)には、「景初二(238 )年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡(帯方郡役所)に詣り、天子に詣なしめりて朝献せんことを求む。・・・その年十二月、詔書して倭の女王に報せていわく、云々」とあり、また「正始元( 240)年、太守の弓遵、建中校尉の梯儁等を遣わし詔書・印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拜仮(中略)。倭王は使に因って上表し詔恩に答謝す」とある。


 これら一連の記述から見てわかるように、魏の皇帝から倭王に対して文書が送られ、また倭王の遣いが文書でやりとりされているところを見れば、魏( 220年~265年)の時代には、すでに漢字を使用していたし、和(倭)国の王族や上流階級は、それを読みこなしていたことが歴然としている。ただ魏志倭人伝も、撰録された後に人の手によって幾度も書写されているもので誤写もあろうことは心して読む必要がある。


 ところで、古代人の墓誌の日付はすべて干支で表記されている。六十年サイクルで回ってくる干支年を西暦年に換算するには、系譜や親子関係、同時代に登場する人物との関係を慎重に勘案しながら実年代を比定する必要がある。


また、中国での暦法の起こりも古く、秦( BC221年)から前漢の元封六(BC105 )年までは顓頊暦が使われ、当時から太陰太陽暦が、また後漢( BC25年)から魏( BC220年~265年)の時
代には四分暦(太陰太陽暦)が使用されているという。


 本書は、古墳の碑石や石棺等の遺跡・遺物から解読された墓誌の年代比定を有力な手がりとして古代人の実年代を特定し、記紀や古史古伝等の記録をもとに、日本建国黎明期に活躍した人々の世界と真相を究明しようと思う。
 ただ、古代人の感情まで推し測ることは至難で、心情や真相は今の我々の感覚では計り知れない面も多分にあるかも知れない。  

 だから、確たる史料や証左のないものは、独善的な推測を極力避けて考証・考察する必要があると考えている。以下、人類学や考古学の成果からみる人類の誕DNA生から日本人の先祖となった人々、また記録や伝承に残っている古代人の活躍について、古い年代から順次辿って検証・整理していくことにしようと思う。
 なお、本書は各章単位にそれぞれ完結するつもりで書いたものを、ここに章をたてて纏めたものである。したがって章間で重出した文節や論考のあることを予めお断りしておきたい。
 何はともあれ書記や続日本記など、正史の偽装を糺し、乍ら、古代の日本列島における国の成り立ちや、建国黎明期に活躍した人々の足跡を巡る新何時の歴史を追求することに力点を置きたいと思う。

 依って、古事記・日本書紀の偽作を糺した真の古代史「古代日本原記」と名付けることにしたい。本書を執筆するにあたり、引用又は参照した史料や参考資料は「引用文献、参考資料」として最後に一括して掲載した。また、引用、または参照した文節には、文献番号を付記したので、詳細はそちらを参照にされたい。

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