人はどう死ぬのか…医師が明かす

hirachyuu

         


人はどう死ぬのか…


 父親の最期の夜、下顎呼吸が2~3時間続いたように思います。近くで横になっていた私は、その呼吸音が高音になったので、大丈夫かなと思い、父親の傍に付き添いました。
 その後、5分くらい経ったのでしょうか。父親は最後の一息を吐いて逝きました。
 父親の耳元で、「ありがとう」「ありがとう」と呼びかけまし
た。


           



医師が明かす「ご臨終」に至るまでの一部始終


 だれしも死ぬときはあまり苦しまず、人生に満足を感じながら、安らかな心持ちで最期を迎えたいと思っているのではないでしょうか。


 私は医師として、多くの患者さんの最期に接する中で、人工呼吸器や透析器で無理やり生かされ、チューブだらけになって、あちこちから出血しながら、悲惨な最期を迎えた人を、少なからず見ました。


 望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるのでしょう。


*本記事は、久坂部羊『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。


          



死を見る機会

 ふつうの人が人の死を直接見る機会は、さほど多くはないでしょう。見るとすれば、たいていは家族の死で、多くは病院のベッドのまわりで見ることになります。医者と看護師がいて、患者さんには点滴とか酸素マスクがつけられ、場合によっては心電計や人工呼吸器も装着されている。家族の死だから、悲しかったり複雑な思いがあったりして、とても冷静には見られない。加えて、死は忌むべきものという頑強な刷り込みもあるので、じっくり見たり、ましてや観察などはまず行われません。


 自宅での看取りでも、まわりに医療機器などがなく、場所が見慣れた空間であるというだけで、看取る家族の動揺はほとんど変わりがないでしょう。



 稀なケースとして、目の前で突然だれかが死ぬ(交通事故や水難事故、飛びこみ自殺など)のを目撃することもあるでしょうが、こちらは家族の死以上に見る者を動揺させるにちがいありません。殺害現場などに遭遇してしまうと、動揺どころか動転、驚愕、ときには失神さえしてしまうでしょう。


 医者だって人間です。はじめて患者さんの死を看取るときは、一般の人と同じく動揺します。それまで自分が治療し、いろいろなことを説明し、人間的な関わりを持った人が死ぬのですから、当然ながらショックは大きい。


 自分の患者さんでなくても、たとえば当直のアルバイト先でたまたま臨終に立ち会う場合でも、一人の人間の死という厳粛な事実の前では、畏怖のようなものを感じずにはいられません。その感覚は、家族や一般の人のそれとさほど差はないはずです。


 が、場数を踏むにつれ、医者は次第に死に慣れてきます。死に慣れるなど、不謹慎だと思われるかもしれませんが、実際、慣れます。慣れると心にゆとりができます。そうすると、ゆとりのないときには見えなかったものが見えてきます。それは死を、ある種、乾いた現象として理解させてくれたりします。


 いずれにせよ、一般の人は平常心で死を見る機会が少ないので、死を大袈裟に捉え、死者に過剰に反応しがちではないでしょうか。


 死が人生の重大事であることはまちがいありませんが、心にゆとりを持って見れば、特別な不幸でも不運でもないことがわかります。だれにでも起こることで、恐ろしいことでも、いやなことでもない。ごく当たり前のことだと感じられる。その感覚を理解してもらうために、死に直面していない今、死の実際をイメージしていただきたいと思います。



死の判定とは

 最近は人の死といっても、一筋縄ではいきません。

「心肺停止」などは、心拍も呼吸も止まっているのに「死」とは認められない。蘇生処置によって、生き返る可能性があるからです(と言っても、多くの場合は植物状態であったり、麻痺が残ったりして、元通りになることは少ないですが)。


 人の死を判定するときには、医者は「死の三徴候」と呼ばれるものを確認します。「呼吸停止」「心停止」「瞳孔の散大」がそれです。この三つが揃うと、人は死んだと判定されます。


 一般の人は、人の死は医者が死亡時刻を告げたときに起こったと思うでしょうが、実はそうではありません。そもそも、人がいつ死んだかということは、厳密に規定することができないのです。なぜなら、臓器はある瞬間にいっせいに機能を止めるわけではありませんので。


 たとえば、死体腎移植は、ドナーが亡くなってから腎臓を取り出して、レシピエントに移植しても十分に機能を果たします。つまり、腎臓は死後もしばらく生きているということです。膵臓や眼球(角膜)なども同様です。


 心臓と肺にしても、同時に機能を止めるわけではありません。心臓の動きは心音や心電図、肺は呼吸で確認できますが、心音が聞こえなくなっても、心臓の細胞がすべて機能を停止したわけではないし、呼吸が止まっても、肺の細胞が死に絶えたわけではありません。いずれも徐々に機能を停止し、細胞レベルでは順に死滅していきますから、最後の細胞が死んだときなど、どんな計測器を使っても決定することはできないでしょう。



死のポイント・オブ・ノーリターン

 突然死や即死の場合は別として、ふつうの死はまず昏睡状態からはじまります。完全に意識がなくなって、呼びかけにも痛みの刺激にも反応しない状態です。唸り声やうめき声を発していたり、顔を歪めていたりする間は、昏睡とは言いません。


 昏睡のときは、エンドルフィンやエンケファリンなど、脳内モルヒネが分泌されますから、本人は心地よい状況にあるなどと言われますが、もちろんこれは仮説で、確かめようがありません。脳内モルヒネは人生最後のお楽しみであり、ほんとうに心地よい状態が用意されているのかもしれませんが、実際はそれほどでもなく、単に死戦期(生から死への移行期)の不安をやわらげるためのおまじないかもしれません。


 昏睡状態になれば、いっさいの表情は消えます。意識がないのだから当然です。昏睡に陥ると、間もなく下顎呼吸がはじまります。顎を突き出すような呼吸で、これが死のポイント・オブ・ノーリターンとなります。呼吸中枢の機能低下によるものですから、酸素を吸わせても意味がありません。つまり、これがはじまると、回復の見込みがゼロになるということです。


 ほとんど空気を吸っていないように見えるので、はじめて見る人には喘いでいるように感じられるかもしれません。ですが、先に述べたように意識はないので、本人は苦しくない(はずです、確認はできませんが)。
 この状態になると、蘇生処置をほどこしたところで元にもどることはまずなく、仮にもどったとしてもすぐまた下顎呼吸になります。生き物として寿命を迎えているのですから、抗わずに穏やかに見守るのが、周囲の人間のとるべき態度と言えます。


 下顎呼吸がどれくらい続くのかは人によりますが、たいていは数分から一時間前後で終わります(私は在宅医療で一昼夜続いた患者さんを看取ったことがありますが)。
 次第に呼吸数が減って、無呼吸と下顎呼吸が入れ替わり現れます。これは「チェーンストークス呼吸」と呼ばれるもので、やがて最後の一息を吐いて、ご臨終となります。

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