「死ぬ間際」後悔する「たった一つ」のこと
「死ぬ間際」にほとんどの人が後悔する「たった一つ」のこと
家族の中で、私はただ一人、父親の最期を看取りました。
自宅療養中のベッドで、深夜に長い吐息をして父親は逝きました。目元には、涙が溜まっていました。
自身も年を重ね、ふと、父親の気持ちに触れる時があります。
「あの時、父親にもっと良くしておけば良かったなぁ・・・」
「父親の気持ちも分からずに、看病していたなぁ・・・」と。
突然、教本が浮かんで来て、胸が熱くなり、
「何も分かっていなかったなぁ・・・」
「付いていくことで精一杯だったなぁ・・・」
アボジ、と当時が甦ってきます。
現代ビジネス記事
老いればさまざまな面で、肉体的および機能的な劣化が進みます。目が見えにくくなり、耳が遠くなり、もの忘れがひどくなり、人の名前が出てこなくなり、指示代名詞ばかり口にするようになり、動きがノロくなって、鈍くさくなり、力がなくなり、ヨタヨタするようになります。
世の中にはそれを肯定する言説や情報があふれていますが、
果たしてそのような絵空事で安心していてよいのでしょうか。
医師として多くの高齢者に接してきた著者が、上手に楽に老いている人、下手に苦しく老いている人を見てきた経験から、初体験の「老い」を失敗しない方法について語ります。
*本記事は、久坂部羊『人はどう老いるのか』
(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。
上手に死ぬ準備
近い将来、だれでも必ず死ぬのですから、そのための準備をすることは、いつ来るともしれない地震や津波に備えるよりも大事ではないでしょうか。
常々私はそう発言し、そのための情報提供もしてきましたが、まだまだ目を背けたまま何の準備もしていない人が多いようです。最後は病院に行けばいい、医者に任せればなんとかしてくれる、そんな不吉なことは考えたくないなどと思っている人です。
上手に死ぬためには、まず死を受け入れることが大事だと前著に書きましたが、その死を受け入れるというのがむずかしいのだというご意見をたくさんいただきました。何も今すぐ受け入れろと言っているのではなく、死に瀕したらということですが、それもやはりむずかしいのでしょう。
理由は簡単。人間は本能的に死を拒むようにできているからです。むかしはそれでも特段、問題はありませんでした。あまり苦しむ前に、自然が死をもたらしてくれていましたから。ところが医療が発達したせいで、いつまでも死を拒んでいたらたいへんなことになる時代になっているのです。
死が世間の目から隠されてしまったことも問題です。家で亡くなる人が多かったころは、死は日常の一部で、深い悲しみはあるものの、自然なものとして受け入れられていました。
しかし、今、死は非日常で、あり得べからざるもののように拒絶されています。メディアでも、死は絶対悪で全否定すべきものという論調がもてはやされます。そこに理性は感じられません。
死を受け入れるためには、長生きの苦しみや、終末期医療の悲惨を見るのがいちばんですが、ふつうの人にはその機会はまれでしょう。高齢者施設の職員で、過剰な長生きを肯定し、自分もそうありたいと思っている人はまずいないでしょうし、医療者も最後の最後まで病院で医療を受けたいと思っている人は少ないはずです。両者とも適当なところで死ぬことの大事さ、快適さ、効率のよさを実感しているからです。自分が死ぬときは、医療の手を離れ、自宅や施設で自然な最期を迎えたいと思っている人が大半だと思います。
あのとき死んでいれば…
私も自分のこととして、上手に死ぬための準備をしているつもりですが、実際はどうなるかわかりません。あれだけ延命治療は無駄、無意味、有害と言いながら、気づいたらチューブだらけで機械で生かされている状態になっているかもしれません(そうなったら大いに嗤ってやってください)。

上手に死ぬための準備は、もっぱら病死を含む自然死を前提にしていますが、そううまく死ねるともかぎりません。
たとえば、先日、私は自転車で走行中、出会い頭の事故であわや死ぬかもという状況になりました。大阪市内の信号のない四つ辻で、スピードを落としつつ右を見て、左を見ようとした瞬間、左から来たワゴン車と衝突したのです。
あっと思った直後、一瞬、意識がなくなり、気がつくとアスファルトに自転車ごと倒れていました。どれほどの怪我かわからないので、まず手を動かし、肘を曲げて、腕の骨折がないことを確かめ、大きく息を吸って肋骨の骨折もないことを確かめ、次いで太ももと足首を曲げ伸ばしして、骨折のないことと、脊髄損傷のないことを確認して、ほっと一息つきました。どこか痛いところはないかとさがすと、ズボンの膝頭が破れていて、血が滲んでいました。しかし、膝蓋骨は無事のようだったので、手を突いて身体を起こすと、立ち上がることもできました。自転車も前輪の一部が歪んでいましたが、さほどの変形はないようでした。
ワゴン車を運転していた女性が車を止め、青い顔で駆け寄って来ましたが、たいした事故ではなかったので、「大丈夫です」と言うと、「申し訳ございませんでした」といきなり土下座したので驚きました。「警察を呼びます」と言うので、「いや、けっこうです」と断りました。私も次の予定があって急いでいたからですが、このままその場を離れると女性はひき逃げになるので、警察を呼ぶべきだったとあとで知人に叱られました。
それからふと思ったのですが、もしもあのとき、即死していたらどうだったのか。あそこで私の意識が途絶え、その後は何もない。であれば、これほど楽な死に方はないのではないか。
周囲の人間は、まだ若すぎるとか、やり残したことがあるだろうにとか、あまりに運が悪いとか、中にはざまあみろとか、いろいろ言うでしょうが、死んだ私本人は何もわかりません。悔しがることも、未練を感じることも、家族や友人との別れを惜しむことも、ましてや相手の運転手を憎むこともないでしょう。
死とはそういうもので、あれこれ思うのは周囲の人間だけ。本人には何もわからない。つまり、よく言われる通り一人称の死はないということです。
【人生変わる】最先端量子科学の仮説が解き明かした「死後の世界」『死は存在しない』by 田坂広志