クリスチャンの方と意見交換「創世記とミクロの世界」
【Sさん】
物理学などの探求向学心なら解るが。哲学の神を凌駕するほどの「向学心」という言葉はよく解らない。哲学の向学心とは何だろう。
新約聖書では「哲学」の言葉を小馬鹿に使っている。行伝17:18「エピクロス派、ストア派の哲学者」。コロサイ2:8「空しい騙し事の哲学」と。
「神を論証探る」という点で「向学心」というなら、哲学は馬鹿にされる存在なのである。物理学の向学心なら解るが。「神を凌駕する向学心」というなら意味が解らないのである。
philosophiは「知恵知識を愛する」事で。哲学と訳されるとよく解らない。sophiaは「巧み、上手、叡智、捻り出す」などと訳されている。本来philosophiは現実の「巧みや上手を追う」もので、哲学と訳されるから意味が解らなくなる。
「神を凌駕する」などと言われると余計に??となる。philosophiは「現実の叡智」でとどめるべきで。たかが人間が、神の生成などというと小馬鹿にされるのは当然なのである。
ゆえにタレス、ソクラテス、プラトンが形而上的な事をいうと馬鹿にされるのは当然。現実的な知恵に哲学は向くべきなのである。
【Iさん】
哲学とは、神をも凌駕する向学心と位置づけました。
哲学するということは、神に向かうのではなく、越えていこうとすること。すなわち全てと言えるかも。
【hさん】
「物理学と哲学」というテーマを頂き有難うございます。
ところで、量子力学(物理学)とキリスト教(宗教・哲学)というテーマで、以下のようなことを思考しているのですが・・・
創世記第1章は「量子力学」が書かれているのでしょうか?
創世記第1章の聖句から考察してみました。
3..神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4.神はその光を見て、良しとされた。
31.神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。
以上の聖句から、神様は光「波長」を見て、全被造世界「粒子・元素・物資」を造られたことがわかります。

先端物理学の量子力学では、
量子(素粒子・光子)は、波長状態(エネルギー状態)であり、人間の「観測」によって粒子化することが、実験によって確かめられ、分かっています。
よって、
創世記第1章は、宗教版量子力学「観測者効果」と解釈しても良いと考えるのですが・・・
皆様、「創世記と量子力学」を「観測」という「一つの課題」で共有する理論、いかが思われますでしょうか?
【量子とは】文部科学省ホームページ
量子とは、粒子と波の性質をあわせ持った、とても小さな物質やエネルギーの単位のことです。物質を形作っている原子そのものや、原子を形作っているさらに小さな電子・中性子・陽子といったものが代表選手です。光を粒子としてみたときの光子やニュートリノやクォーク、ミュオンなどといった素粒子も量子に含まれます。
量子の世界は、原子や分子といったナノサイズ(1メートルの10億分の1)あるいはそれよりも小さな世界です。このような極めて小さな世界では、私たちの身の回りにある物理法則(ニュートン力学や電磁気学)は通用せず、「量子力学」というとても不思議な法則に従っています。
【観測者効果】
量子は、誰にも見られてない時は波のように振る舞い、
観測者に見られていると粒子のように振る舞う。
