「昼の神・夜の神」は、二人の神なのだろうか?
科学者は、研究テーマである実験結果の論文を作成したり、シンポジウムなどで公開・発表し、それに対する様々な意見や反論などを情報収拾し、更なる外的真理を探究する道を開いてきました。
その努力は、人類が快適な社会生活を営む原動力となり、多大な社会貢献を実現しました。
今も尚、その進歩は目を見張る勢いで、研究者の好奇心を駆り立てています。
19世紀後半から、物理学の急速な発展に伴い、その研究領域が巨大化・複雑化することによって、実験物理と理論物理学に分化され、今日の物理学が構成されています。
同様に、思想・哲学・宗教などにおいても、伝統的価値観や儀式などの継承を重要とする一方、内的真理を探究し、AI時代に相応しい思想・哲学・宗教・心理学などの開発が願われる時代を迎えています。
宗教と科学を統合し、人間力を高めていく普遍的価値観の出現が願われている時代だと考えます。
共産主義(独裁)、資本主義(拝金)の限界を実感する現代人は、共生共栄社会を構築する為に、人間「男性女性」の普遍的価値を明確にする時代に来ていると思います。
その上で、
以下、①~④の論説に、感想を記します。
①「昼の神・夜の神」は汎神論だから、形而上学
による宇宙創造論は消える。
ウイキペディア
汎神論または万有神論とは、現実は神性と同一である、あるいは、すべてのものはすべてを包含する内在的な神を構成しているという信条。
形而上学は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思惟で認識しようとする学問ないし哲学の一分野。
【感想①】
汎神論、人間が作った信条です。
形而上学、人間が作った学問・哲学の一分野。
「昼の神・夜の神」を科学で考察すると、
「昼の神様】=ビッグバン以後の宇宙=光が有る
=観測できる=有形=宇宙と人間
「夜の神様】=ビッグバン以前の宇宙=光が無い
=観測できない=無形=神・愛・心情・良心
宇宙は、「夜の神様」のビッグバンによって始まり、形成されたとする「ビッグバン理論」が、現代科学の真理と考えます。
現代科学によって、宇宙創造論を証明することができ、無神論者の説である、偶然の産物「あって在るもの」ではないことが明確になります。 方向性・目的性を持って、被造世界は創造されているからです。
②「宇宙と人間」の存在はあって在るもの?
【感想②】
感想①から、「宇宙と人間」は「昼の神様」であり、ビッグバン以降の物質世界(有形)であると考えます。
人間とって「宇宙と人間」の存在は、反射光が目に届き、その信号が脳に伝達され色(波長)として、物質を観測、認識する理由からです。
また、
出エジプト記3章14に「私はいる」と有ります。
第一原因の創造主は、無形で、目に見えない存在として「いる」とする文言と理解します。
目に見える物質を「いる」とは言いません。
人間は良心で認識できます。
物質である宇宙や人間は、結果的存在ゆえ、
「宇宙と人間」が存在する以前、即ち、ビッグバン以前から存在していた創造主を「夜の神様」、「第一原因」「サムシンググレート」と表現できると考えます。
「愛なる存在」「ペアシステムの存在」原理用語を使えば、「二性性相」とも言えます。
文先生は「昼の神・夜の神」は愛の統一体であるとも、メッセージされました。
創造原理の、
「本性相と本形状の二性性相の中和的主体」は、良く知られています。
正に、本性相は「夜の神様」、本形状は「昼の神様」のことであると理解できます。
そして、創造原理に、「愛の統一体」と言う文言を加えるようにも言われました。
【天聖教 宇宙の根本】
以上の宗教と科学の探究をとおして、
中和的主体、愛の統一体の「昼の神・夜の神」は二人ではありません。人間の心と体の存在のように一体で一つであることが、私の結論です。
③ 二人の神が揃う「昼の神・夜の神」?
【感想③】
感想②にあるよう、中和的主体、愛の統一体の「昼の神・夜の神」は二人ではありません。人間の心と体の存在のように一体で一つです。
④ 統一原理の悪の発生は後天的であるとして?
上記④の悪の発生について、
「神側VSサタン側」「アベルVSカイン」という
ように善悪二律背反であるから、統一原理信奉
者は善悪渾然一体化した神の摂理プログラムを
絶対に理解できない。
に対して、
【感想④】
目的性から見た善悪の基準が理解できれば、善悪渾然一体化した神の摂理プログラムと言う説は出てきません。
統一原理は悪の発生は後天的であるとして
「神側VSサタン側」「アベルVSカイン」という
ように善悪二律背反であるという主張は、統一原理を正しく理解できていない論者の説と捉えました。
「善悪渾然一体化した神の摂理プログラム」という説は、論者の仮説として捉えました。
理由は以下に書いてありるからです。
どちらが「神側VSサタン側」でしょうか?
堕落論
第四節 人間堕落の結果
三)目的性から見た善と悪
善と悪に対する定義は、既に、創造原理の中の「創造本然の価値」において論じ尽くした。今、ここにおいて、我々は、その目的性から見た善悪の意味を調べてみることにしよう。
アダムとエバが、彼らに賦与された愛をもって、神を中心として四位基台を造成したなら、彼らは善の世界をつくることができたはずである。しかし、彼らはこの目的に反する愛をもって、サタンを中心とする四位基台を造成したので、悪の世界をつくってしまったのである。
それゆえに、善と悪とは、同一の意味をもつものが、相反した目的を指向して現れたその結果を指していう言葉なのである。したがって、我々が、しばしば悪であると考えてきた人間の性稟も、それが神のみ意を目的として現れるときには善になるという例を、いくらでも発見することができる。今、それに対する例を挙げてみることにしよう。我々が、往々にして罪であると考えるところの欲望なるものは、元来、神より賦与された創造本性である。なぜなら、創造目的は喜びにあるのであり、喜びは欲望を満たすときに感ずるものだからである。したがって、もし人間に欲望がないとすれば、そこには同時に喜びもあり得ないということになるのである。そうして欲望がないとすれば、神の愛を受けようとする欲望も、生きようとする欲望も、善を行おうとする欲望も、発展しようとする欲望もないということであるから、神の創造目的も、復帰摂理も、達成することができず、人間社会の維持とその発展もあり得ないのである。
このように、本来の欲望は創造本性であるがゆえに、この性稟が神のみ意を目的として結果を結ぶならば、善となるのである。 しかし、これと反対に、サタンの目的を中心としてその結果を結べば悪となるのである。この悪の世界も、イエスを中心とし、その目的の方向だけを変えるならば、善なるものとして復帰され、地上天国が建設されるということは(前編第三章第二節(二)参照)、このような原理を見て明らかにされるのである。したがって、復帰摂理は、サタンの目的を指向しているこの堕落世界を、神の創造目的を成就する地上天国へと、その方向性を変えていく摂理であるとも、見ることができるのである。
復帰摂理の性格がそうであるから、この摂理の過程において取り扱われる善の基準は、絶対的なものではなく、あくまでも相対的なものである。なぜかといえば、ある特定の時代の上に立って考えてみると、その時代の主権者の理念の指向する目的に順応すれば善となり、その目的に反対すれば悪となるのであるが、いったん、その時代と主権者が変わり、その理念が変わるようになれば、同時にその目的も変わるので、したがって、善と悪の基準も変わるようになるのである。そればかりではなく、宗教や思想においても、その枠内にある人々にとっては、その教理とその思想が指向する目的に順応することが善であり、それに反対することは悪となる。しかし、いったんその教理や思想が変わるか、あるいは他の宗教に改宗するか、または他の思想に転向するようになれば、それに従って、目的も異なってくるので、善悪の基準もおのずから変わるようになるのである。人間社会において、常に闘争と革命が起こるその主な原因は、このように、人間の指向する目的が異なるに従って、善悪の基準が、常に異なってくるところにあるといえよう。このように復帰過程における善は、相対的なものとならざるを得ないのである。
しかし、地上でサタンの主権を追い払い、時代と場所とを超越して永存し給う絶対者たる神御自身が主権者となり、その神からくるところの理念が立てられるときには、その理念は絶対的なものであるために、それが指向する目的もまた絶対的であり、善の基準も絶対的なものとして立てられるのである。
これがすなわち、再臨主によってもたらされるべき天宙的な理念なのである。事実上、人類歴史は数多くの闘争と革命を重ねながら、本心が指向するこの絶対的な善を探し求めて流れてきたのである。
したがって、堕落した人間社会における闘争と革命とは、この絶対的な目的を追求し、絶対的な善の世界を成就するまで継続せざるを得ないのである。
大魔神怒る
